ル・ボン『群衆心理』(14) ~指導者~

群衆の心を動かす術を心得ている弁士は、その感情に訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのである。合理的な論理の法則は、群衆には何の作用をも及ぼさない。群衆を説得するのに必要なのは、まず、群衆を活気づけている感情の何であるかを理解して、自分もその感情を共にしているふうを装い、ついで、幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかき立てて、その感情に変更を加えようと試みること、必要に応じてはあともどりもし、特に、新たに生れる感情をたえず見ぬくことである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 144)

 <群衆>の扇動指南のような話である。<群衆>の活力源となっている感情を見抜き、その感情に訴えることが必要だということだ。

人間の統治に道理が参加することをあまり要求してはならない。名誉心、自己犠牲、宗教的信仰、功名心、祖国愛のような感情は、道理によらず、むしろしばしば道理に反して生れたのであって、これらの感情こそ、これまであらゆる文明の大原動力であったのである。(同、p. 147

 <群衆>を鼓吹(こすい)するためには、道理を説くのではなく、感情に訴えねばならないということである。

 指導者は、多くの場合、思想家ではなくて、実行家であり、あまり明噺な頭脳を具(そな)えていないし、またそれを具えることはできないであろう。なぜならば、明噺な頭脳は、概して人を懐疑と非行動へ導くからである。指導者は、特に狂気とすれすれのところにいる興奮した人や、半狂人のなかから輩出する。(同、p. 151

 欧州であれば矢張りヒトラーということになろうが、私には小泉純一郎が真っ先に思い浮かぶ。

彼等の擁護する思想や、その追求する目的が、どんなに不条理であろうとも、その確信に対しては、どんな議論の鋭鋒(えいほう)もくじけてしまう。軽蔑も迫害も、かえって指導者をいっそう奮起させるだけである。一身の利益も家庭も、一切が犠牲にされている。指導者にあっては、保存本能すら消えうせて、遂には、殉教ということが、しばしば彼等の求める唯一の報酬となるのだ。強烈な信仰が、大きな暗示力を彼等の言葉に与える。常に大衆は、強固な意志を具えた人間の言葉に傾聴するものである。群衆中の個人は、全く意志を失って、それを具えている者のほうへ本能的に向うのである。(同、pp. 151-152

 「自民党をぶっ壊す」と言って煽り、反論する人達には「抵抗勢力」というレッテルを貼って気炎を上げる。兎に角(とにかく)、小泉構造改革の時代は、威勢はよいが思考は停止した一種異様な熱狂の時代であった。

 宗教上、政治上あるいは社会上の信仰にせよ、ある事業、ある人物、ある思想に対する信仰にせよ、信仰を創造すること、これが、特に、偉大な指導者たちの役割である。(同、p. 153

 換言すれば、ある種の<信仰>を創造し得た指導者が全権を手に入れるということだ。

 社会の最上層から最下層にいたるまでの各層において、人は、単独でなくなるやいなや、ただちに指導者の掟(おきて)に従うことになる。大部分の個人は、特に俗衆のうちに立ちまじれば、自分の専門以外には、何らはっきりした理詰めな考えを持たなくなり、自ら身を処することもできなくなる。そこで、指導者が、その手引きになるのである。やむを得ない場合には、極めて不十分ながら、定期刊行物が、指導者のかわりをすることもある。定期刊行物というものは、読者たちに意見をつくってやり、彼等に出来合いの文句をつぎこんで、自ら熟慮反省する労をはぶいてしまうのである。(同、p. 154

コメント

このブログの人気の投稿

オークショット『政治における合理主義』(4) 合理という小さな世界

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(102)遊びと科学

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(86)エビメテウス、プロメテウスの神話 その2