ル・ボン『群衆心理』(20) ~漸進的自由の拘束~

昨日積み残した<個人の自由の漸進的な拘束>について検討しよう。

 拘束的な法規をたえずもうけて、生活上のごく些細(ささい)な行為にも、非常に煩(わずら)わしい手続を伴わせれば、必然の結果として、人民が自由に活動できる範囲を次第に狭めることになる。法律を増加すれば、それだけよく平等と自由とが保障される、という錯覚にとらわれている諸民族は、日ましに重くなる束縛に甘んじている。

 諸民族が束縛に甘んずれば、悪い結果を生ぜずにはいない。諸民族は、あらゆる束縛に堪えることに慣れて、やがては自ら束縛を求め、自発性や気力をことごとく失うにいたる。それは、もはや空虚な影法師、意志も抵抗力も力強さもない、受動的な自動人形にすぎなくなる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 264-265

 フランス革命が「自由・平等・博愛」を旗印にしたものだから、<自由>と<平等>が両立すると誤解している人が多いのだろう。が、<自由>と<平等>は本来的に衝突するものである。<自由>を追求すれば「格差」が生じる。一方、<平等>を追求するためには<自由>は制限されねばならない。民主主義は1人1票の<平等>を旨とするものであるから、必然的に<自由>は縮退されることになる。

人民の無関心と無力とがますます募(つの)るにつれて、政府の役割は、さらに増大せずにはいなくなる。是が非でも、政府は、個人が失った創意と計画と指導との精神を持たねばならないのだ。政府が、一切を計画し、指導し、保護しなければならない。そのとき、国家は、全能の神となるのだ。しかし、このような神々の力が非常に永続きして強大であったことのないのは、経験が教えている。(同、p. 265

 「すべての権力は崩壊するし、絶対的権力は絶対的に崩壊する」(アクトン『自由の歴史』)のである。

 ある民族にあっては、放縦(ほうじゅう)さが、あらゆる自由を所有しているかのような錯覚をひき起こすにもかかわらず、その自由は、次第に拘束されて行くのである。これは、何らかの制度から起こることであるが、またその民族の老朽さからも起こるらしく思われる。このような自由の漸進(ぜんしん)的な拘束は、これまでどんな文明もまぬかれ得なかったあの衰頽(すいたい)期を示す前兆の一つとなる(同)

 平等主義の一形態たる民主主義が徐々に国民の自由を奪っていく。そしてこの自由の逓減(ていげん)が文明を衰退へと導くのである。

 1つの夢を追求しながら、野蛮状態から文明状態へ進み、ついで、この夢が効力を失うやいなや、衰えて死滅する。これが、民族の生活が周期的にたどる過程なのである。(同、p. 269)【了】

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