ル・ボン『群衆心理』(6) ~不易流行~

 群衆は、殺人、放火をはじめ、あらゆる種類の犯罪を演じかねないが、また、単独の個人がなし得るよりもはるかに高度の、犠牲的な、無私無欲な行為をも行い得るのである。光栄とか名誉とか宗教とか祖国とかに対する感情にうったえれば、とりわけ群衆中の個人は動かされる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 69)

 これは独裁者から見て「<群衆>は使いよう」とも受け取れるやや怪しげな指摘である。事実、『群衆心理』はヒトラーの愛読書であったともされている。

低級な本能にしばしば身を任せる群衆は、ときには、高尚な道徳行為の模範を示すこともある。無私無欲、諦め、架空のまたは現実的な理想への絶対的な献身などが、道徳上の美点であるならば、群衆は、最も聡明な哲人でもめったに到達できなかった程度に、これらの美徳を往々所有するものであるといえる。(同、p. 71

 成程、一見<無私無欲>、<諦め>、<献身>といったものは<道徳上の美点>にも見える。が、<群衆>が恬淡(てんたん)とし、諦念的、献身的であるとすれば、独裁者にとってはこれほど都合の良い事はない。そこに民主主義がともすれば独裁者を生み出してしまう弱さ・怖さがある。

 この(群衆に受けいれられやすい)思想は、2つの部類にわけることができる。第1の部類には、そのときどきの影響を受けて発生する偶発的な、一時的な思想を入れよう。これは、例えば、ある個人、またはある主義に対する心酔のごときものである。もう1つの部類には、環境、遺伝、世論などによって非常に強固なものとなる根本的思想を入れよう。これは、かつての宗教思想、今日の民主主義社会思想のごときものである。

 根本的思想とは、おもむろに流れつづける河の水全体にもたとえられようし、一時的思想とは、たえず変化して、河面をかき乱すさざ波、実際には重要なものではないが、河自体の進行よりも人の眼につきやすいさざ波にもたとえられよう。(同、pp. 74-75)

 これには「蕉風(しょうふう)俳諧理念」が一つの参考となろう。

《俳諧には不易(永遠に変わらぬ本質的な感動)と流行(ときどき新味を求めて移り変わるもの)とがあるが、不易の中に流行を取り入れていくことが不易の本質であり、また、そのようにして流行が永遠性を獲得したものが不易であるから、不易と流行は同一であると考えるのが俳諧の根幹である》(学研「四字熟語辞典」)

 流行が永遠性を獲得しそれが蓄積されて不易(ふえき)となる。そしてその不易は日々流行に洗われて更新されていく。社会にとって重要なのは、この不易が安定しているかどうかがである。不易が安定していれば多少小波が立とうとも問題はない。が、不易が安定していなければ小波といえども社会は動揺し混乱してしまうに違いない。

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