オルテガ『大衆の反逆』(2) 両面感情の存在
オルテガは<エリート>と<大衆>を対比する。
人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越(せんえつ)な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の2つのタイプに分けることができる。第1は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第2は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが、自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標(ふひょう)のような人々である。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 17-18)
世の中には、自ら進んで自らに困難な課題を課し、その結果に責任を負う覚悟と気概のある<エリート>と、そういった課題など与(あずか)り知らぬことと無責任を決め込む<大衆>との2種類の人間が存在する。一方、哲学者カール・ヤスパースは、<民族>と<大衆>を対置する。
《民族はさまざまの秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は何か実体的質的なものであり、共通した雰囲気をもち、この民族出身の個人は、彼を支える民族の力によっても1つの個性をもっている。
これに反し大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承をももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている》(「歴史の起原と目標」:『世界の大思想 40』(河出書房新社)重田英世訳、p. 123)
が、忘れてはならないのは、人は状況次第で民族的にも大衆的にも成り得る両面感情(ambivalent)の存在だということである。
《個人は、民族であると同時に大衆である。個人は彼が民族である場合と、大衆である場合とで全く別々な感情を懐くのである。状況は大衆たることを強い、人間は民族たることを固執する。例をあげて具体的に説明すると、私は大衆としては、普遍的なもの、流行、映画、単なる今日の現象を追い廻し、民族としては、具体的に生きている現実、掛け替えのない現実、演劇、歴史的に現前的な伝統を欲する―。大衆としての私は、ステージ上のスターに熱狂して声援を送り、民族としての私は、私の内奥で生を越える音楽を味わう―、大衆としての私は数でものを考え、何もかも積み重ね、水平化し、民族としての私は価値の上下を区別し、組織立てて考える》(同)
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