オルテガ『大衆の反逆』(1) 「平均人」としての<大衆>

今回は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットの主著『大衆の反逆』を取り上げる。

 私がオルテガの名を知ったのは、深夜のテレビ討論番組「朝まで生テレビ」で弁舌を振るわれていた評論家の西部邁(にしべ・すすむ)氏がオルテガに倣(なら)った大衆論を展開されていたことによる。オルテガには浩瀚(こうかん)な著作があり、これらを有機的に検討できれば喜ばしいのだが、山のような著作を一向に切り崩すことが出来ていないのでそれは叶わない。よって、今回の内容が無機的なものと成らざるを得ないことをご了承頂きたく思う。

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冒頭、オルテガは次のように言う。

 そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な1つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。したがってこの事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味しているわけである。こうした危機は、歴史上すでに幾度か襲来しており、その様相も、それがもたらす結果も、またその名称も周知のところである。つまり、大衆の反逆がそれである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 11

 <大衆>が社会的権力の座に就いた。このことをオルテガは<大衆の反逆>と呼んだ。

社会は、つねに2つのファクター(因子)、つまり、少数者と大衆のダイナミックな統一体である。少数者とは、特別の資質をそなえた個人もしくは個人の集団であり、大衆とは、特別の資質をもっていない人々の総体である。したがって、大衆といった場合、「労働大衆」のみを、あるいは主として「労働大衆」を指すものと考えられては困る。大衆とは「平均人」のことなのである。こう考えることによって、先にはまったく数量的であったもの、つまり群衆が、質的なものにかわるのである。大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者をもたぬものであり、他の人々と違わないというよりも、自己のうちに1つの普遍的な類型を繰り返すというかぎりにおいて人間なのである。(同、p. 15

 たくさんの人の集合体が<大衆>なのではない。自分を周りの人たちと変わらぬ平均的な人間と考える人達の集まりが<大衆>なのである。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。(同、p. 17

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