ル・ボン『群衆心理』(13) ~幻想~
恐らく幻想は、はかない影にすぎないではあろう。しかし、われわれの夢の所産であるこの幻想が、諸民族にかつて壮麗な芸術と偉大な文明とをもたらすあらゆるものを創造せしめたのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 139)
<幻想>とは、「現実にはないことをあるかのように心に思い描くこと」である。が、「有り得ない」と思われることを<幻想>することなしに社会の進歩がなかったこともまた事実であろう。その時点で区切れば「有り得ない」と思われることは<幻想>と呼ばれて致し方ないけれども、時代が下ってその<幻想>が「現実」となればこそ文化が振興されるのである。
前世紀の哲学者たちは、幾世紀ものあいだわれわれの父祖たちが生存のよりどころとしてきた宗教上、政治上、社会上の幻想を打破することに、熱心に身をささげた。哲学者たちは、それらを打破することによって、希望と忍従との源泉をも涸渇(こかつ)させてしまったのである。そして、抹殺されたまぼろしの背後に、人間の弱さに対して峻厳(しゅんげん)で、憐憫(れんびん)を知らぬ盲目的な自然力を発見したのである。(同、p. 140)
<幻想>は、それ自体が「悪」なのではない。<幻想>を振り回そうとするから「悪」が生まれるのである。<幻想>をどのように扱うのかが重要なのである。
<幻想>の中には「時」と「処」を変えれば立派に芽が出るものも含まれているだろう。夢が現実となればこそ社会は豊かになってきた。にもかかわらず、今現在で切って、<幻想>と考えられるものをすべて悪しきものとして排除しようとするのは社会発展の芽を摘むことになってしまうに違いない。
否、それよりも、非現実的<幻想>は、人間が厳しい現実に晒(さら)されることから保護してくれているということも忘れてはならないだろう。<幻想>を排除すれば、人は現実に直面することになる。それに耐えられないからこそ<幻想>が存在してきたのである。
これまで、民族進化の大きな原動力は、真実ではなくて、誤謬(ごびゅう)であった。今日、社会主義が、その勢力を加えつつあるのは、それが、今なお活気のある唯一の幻想にほかならぬからである。(同、pp. 140-141)
ガリレオ・ガリレイが唱えた「地動説」は当時<誤謬>であった。その後、「地動説」の正しさが証明され天文学は飛躍的に発展した。勿論、すべての<幻想>の正しさが将来、証明されるわけではない。実際、社会主義国家の実験は大失敗であった。が、<幻想>を十把一絡(から)げに否定することが愚かだということだけは確かなことであろうと思われる。
群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆のいけにえとなる。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 141)
<群衆>は、夢を与えてくれる<幻想>に靡(なび)く。逆に、この<幻想>を叩(たた)き、夢を打ち砕く者には容赦しない。
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