オルテガ『大衆の反逆』(3) 「超デモクラシー」の勝利

現代とは、

大衆が社会の前景に進み出ることを決意し、かつては少数者のみのものであった施設を占領し、文明の利器を用い、楽しみを享受しようと決断した(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 19

そういう時代である。今や社会の至る所が人で溢(あふ)れかえっている。

近年の政治的変革は大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。かつてのデモクラシーは、かなり強度の自由主義と法に対する情熱とによって緩和されたものであった。これらの原則を遵奉(じゅんぽう)することにより、個人は自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら義務づけていた。自由主義の原則と法の規範との庇護によって、少数者は活動し生きることができた(同、p. 20

 20世紀における社会主義の勃興(ぼっこう)は、自由から平等へと軸足が移ったことを象徴している。が、社会主義国家建設は失敗に終わり、平等主義は社会主義から福祉主義へと看板を掛け替えた。法について言えば、現代は英米法よりも大陸法優位の状態にある。議会で制定される「制定法」が万能であるかのような考え方が広まり、議会や制定法より上位の「法の支配」が忘れ去られてしまった、あるいは、顧(かえり)みられなくなってしまった。つまり、人間およびその行為を制限するものが何もないと思うようになってしまったということである。

今日われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているのである。今や、大衆が法を持つことなく直接的に行動し、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制しているのである。(同)

 「法の支配」の下、政治を行うのが<デモクラシー>というものである。が、今や<大衆>が、自らほしいまま、自らの欲求・欲望を強要する<超デモクラシー>とでも呼ぶべき時代が到来した。

今日の著述家は、自分が長年にわたって研究してきたテーマについて論文を書こうとしてペンをとる時には、そうした問題に一度も関心を持ったことのない凡庸な読者がもしその論文を読むとすれば、それは論文から何かを学ぼうという目的からではなく、実はまったくその逆に、自分がもっている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪せんがために読むのだということを銘記すべきである。(同、p.21

 自分の発言に責任をとるつもりのない人達が、責任を問われないことを良いことに下したお気楽な判断の集積が「世論」なるものの正体である。だから政治が「世論」に振り回されるなどということはまったく馬鹿げたことだと言うしかない。が、政治家は「世論」に反抗することも出来なければ無視することも出来やしない。政治家は有権者によって選挙で選ばれる以上、「世論」は絶対なのである。

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達