ル・ボン『群衆心理』(17) ~有権者の資質が握る民主主義の成否~

 いわゆる犯罪的群衆の一般性質は、あらゆる群衆に認められたそれと、まさしく同じものである。すなわち、暗示を受けやすいこと、物事を軽々しく信ずること、動揺しやすいこと、善悪の感情が誇張されること、ある型の徳性が現われることなどである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 210)

 人々は群衆化すれば「理性」を失う。理性を失った<群衆>に犯罪者と変わらぬ特性が見られるのは当然である。

 陪審員たちの感情に働きかけること、そして、あらゆる群衆に対すると同様に、議論をさしひかえるか、もしくは幼稚な推論形式のみを用いること、これが、艮き弁護人の心がけねばならないことである。陪審裁判でたびたび成功を博したので有名になったイギリスのさる弁護士が、この方法を巧みに分析した。

「その弁護人は、弁論中に陪審員を注意深く観察するのであった。好機会(チャンス)が到来するや、弁護人は、勘と習慣の力とを働かせて、陪審員の表情に、一言一句の反応を読みとり、そこから結論をひき出す。まず第一に、陪審員中の誰がすでにこちらの立場に好意をよせているかを見わけることである。弁護人は、たちまち、その陪審員を確実に味方にしてしまう。そうしてから、今度は逆に好意を持っていないと思われる人々のほうへ立ちむかって、彼等が被告に反対する理由を見ぬこうと努める。これは、この仕事中でもデリケートな箇所である。なぜならば、一人の人間の処罰を望む気持には、正義感以外にも、無数の理由が存在するかも知れないからである」(同、pp. 220-221

 日本もフランスを模範として「裁判員制度」を設けているが、事程左様に裁判員が敏腕弁護士によって手玉に取られているのではないかと心配される。裁判員は訓練された判事ではない。自らの良心だけにしたがって判断が下せるわけではない。周りの状況に流されてしまうのも致し方ないことである。

 選挙上の群衆、すなわち、ある職務の有資格者を選ぶべき集団は、異質の群衆を構成する…とりわけ、この群衆に現われる性質は、微弱な推理力と、批判精神の欠如と、昂奮(こうふん)しやすいことと、物事を軽々しく信ずる単純さとである。またこの群衆が行う断定のうちには、指導者の影響と、さきに列挙した諸要因、すなわち、断言、反覆、威厳、感染の作用も見出される。(同、pp. 228-229

 言うまでもなく、民主主義の成否は有権者の資質にかかっている。優秀な有権者の民主主義は良きものとなろうし、劣悪な有権者の民主主義は悪しきものとなろう。では有権者の優劣はどこにあるのか。

《民主主義の成否は、それに内在する権力としての世論の資質が那辺にあるかということにかかっている。現在の世論が衆愚のそれであると断定する気はないが、自己の権力ぶりを自覚できないのみならず、旧態依然、外在的権力の存在を仮想し、とどまるところを知らずといった調子でそれに攻撃を仕掛ける世論の姿からは、次第に濃厚に愚かしさの臭いがたちこめてくるのである。

 民主主義は永遠に成熟しえない政治体制なのであろうか。世論は自分がすでに王位についているのに、外部に「王もち権力」のピラミッドを仮想し、それに反逆する子供の役柄を永遠に演じるしか、民主主義には可能性が残されていないのであろうか。私はそうは思わない。民主主義を疑うような国民による民主主義、世論を疑うことを知っているような国民の形成する世論、つまり自分らが主権者としての資質を有していないことを知悉(ちしつ)した国民のあいだの多数決、それが成熟せる民主主義である》(西部邁『白昼への意志』(中央公論社)、p. 41



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