オークショット「バベルの塔」(2) 中庸の用
我々は正義を実現しようと熱心になるあまりに思いやりを忘れるし、廉潔(れんけつ)への情熱は多くの人々をかたくなで無慈悲にもしたのである。実際、幻滅に至らないような理想の追求は存在しない。この道を辿る人すべてにとって、最後には憂鬱(chagrin)が待っている。いかなる賞賛すべき理想にも反対物があり、こちらも同様に賞賛に値する。自由か秩序か、正義か思いやりか、自発性か慎重さか、原理か状況か、自己か他者か――これらは道徳的生のこの形態がいつも我々に直面させるディレンマであって、それは完全に望ましいというわけではない両極端にいつも我々の注意を引きつけることによって、我々に物を二重に見させるのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 79)
例えば、自由が過剰になり、勝手が横行すれば、社会秩序は乱れる。逆に、秩序に囚(とら)われ過ぎれば、自由に振る舞うことは出来なくなる。必要なのは、自由と秩序を平衡させることである。が、その平衡点は大いに状況に依存されるものであって、自由と秩序を何対何で混ぜ合わせればよいというような話にはならない。だから道徳の実践的課題は、技術的道徳論では答えが出せないのである。
《子程子(していし)曰く偏(かたよ)らざる之を中(ちゅう)と謂ひ、易(か)はらざる之を庸と謂ふ。中者(は)天下の正道にして、庸者天下の定理なり》(宇野哲人『中庸』(大同館版)、p. 53)
詰まり、求められるのは「中庸」だということである。
《仲尼(ちゅうじ)曰く、君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり》(p. 70)
(仲尼曰く、君子は中庸卽(すなわ)ち偏らず倚(よ)らず過不足なく、平常にして且(か)つ恆久不易(こうきゅうふえき)の德を己の身に體得(たいとく)して居るが、小人は中庸に反す。君子の中庸を能(よ)くする故(ゆえ)は、見ざるに戒愼(かいしん)し聞かざるに恐懼(きょうく)して、未發の中を失はず、一念動く處(ところ)よく獨(ひとり)を愼しむの工夫を凝らして中節の和を得、君子の德あるが故に、時に隨(したが)ひ變(へん)に處(しょ)してその宜(よろ)しきに叶(かな)ふのである。小人の中庸に反する故は、小人の心ありて、欲を肆(ほしいまま)にし妄(みだ)りに行ひて、少しも忌(い)み憚(はばか)り遠慮することがないからである)
が、この<中庸>が難しいことは言うまでもない。
《子曰く中庸は其れ至れるかな。民能くする鮮(すくな)きことひさし》(同、p. 72)
(子曰く、中庸の徳たる至美至善、以て加ふるなきものである。然(しか)しながら本來吾人の具有する天賦のもので、大してむづかしい譯(わけ)は無い筈であるが、世の教化衰へて民奮起して之を行ふものがないから、之を能くする少なきこと久しいのである)
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