オークショット「バベルの塔」(1) 社会は賭けに出られない
The pursuit of perfection as the crow flies is an activity both impious and unavoidable in human life. It involves the penalties of impiety (the anger of the gods and social isolation), and its reward is not that of achievement but that of having made the attempt. It is an activity, therefore, suitable for individuals, but not for societies. For an individual who is impelled to engage in it, the reward may exceed both the penalty and the inevitable defeat. The penitent may hope, or even expect, to fall back, a wounded hero, into the arms of an understanding and forgiving society. And even the impenitent can be reconciled with himself in the powerful necessity of his impulse, though, like Prometheus, he must suffer for it. For a society, on the other hand, the penalty is a chaos of conflicting ideals, the disruption of a common life, and the reward is the renown which attaches to monumental folly. Or, to interpret the myth in a more light-hearted fashion: human life is a gamble; but while the individual must be allowed to bet according to his inclination (on the favourite or on an outsider), society should always back the field. Let us consider the matter in application to our own civilization. –- Michael Oakeshott, The Tower of Babel
まっすぐに完全性を求めることは、人間の生において不敬であるとともに避けることのできない活動である。それは不敬への罰(神々の怒りと社会的孤立)をもたらし、その褒賞(ほうしょう)は完成ではなくして、その試みを行ったということ自体である。従ってそれは個人がするに適した活動ではあるが、社会には適していない。
衝動に駆られてそれに従事する者にとっては、褒賞は罰をも不可避の敗北をもしのぐものかもしれない。後悔した者は、物わかりがよく寛大な社会の腕の中に、傷ついた英雄として戻っていくことを希望する、あるいは期待することさえもできよう。そして後悔しない者さえも、プロメテウス同様そのために苦しまなければならないとはいえ、自らの衝動の力強い必然性に甘んじることができる。
ところが社会にとっては、その罰は衝突する諸理想の混乱、共同の生の解体であり、褒賞は記念碑的愚行に付随する名声である。人類が完成するほど人間は堕落する。
あるいはこの神話をもっと気軽に解釈すればこういうことになろう。人間の生は賭けである。しかし個人は自らの傾向に従って(本命か穴馬に)賭けることが許されねばならないが、社会は常に全出走馬に賭けねばならない。
(オークショット「バベルの塔」森村進訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 68)
オークショットが批判するのは、社会が「完成」に向けて進歩していくという「進歩史観」に向けてのものであろう。社会が完成されるなどというのは「妄想」であって、この「妄想」を元に、社会変革を図るというのは余りにも馬鹿げた「賭け」だということである。
個人が「完璧」を求め、突き進もうとすることは有り得ることである。そういう人間がいたとしても大勢に影響しないから問題はない。駄目だったらやり直せば良いだけである。が、社会全体が「完璧」を求めて突き進み、頓挫すれば大混乱となり、やり直そうにも簡単なことではない。それは「フランス革命」や「ロシア革命」といった大変革がどういう結末となったのかを思い起こせば明らかであろう。
いかなる伝統的な振舞い方も、いかなる伝統的な技芸も、固定したままでとどまってはいられない。その歴史は絶え間ない変化の歴史である。確かにそれが許す変化は大きくもなければ突然でもない。だがその一方、革命的な変化はたいてい、変化に対する嫌悪の念が最後になって覆った結果であり、内部にほとんど変化の手段を持たないものの特徴なのである。そして伝統的な振舞いの道徳の中に変化がないように見えるのは幻想にすぎない。(同、p. 73)
時と共に、漸進(ぜんしん)的に変化を積み重ねていくやり方と、不満と鬱憤を日々解消する術(すべ)を知らず、これらを膨張させ、突然それが破裂する大変革のどちらの方が賢明なやり方か、ということである。
我々の話し方ほど不断で慣習的なものはなく、またこれほど絶え間なく変化を蒙っているものもない。自由市場における価格と同様、道徳的行動の習慣は決して静止しないので、革命的な変化を示さない。(同、pp. 73-74)
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