オークショット「バベルの塔」(3) 慣習的道徳と反省的道徳

The intellectual distinction between customary and reflective morality is clearly marked. "The former places the standard and rules of conduct in ancestral habit; the latter appeals to conscience, reason, or to some principle which includes thought. The distinction is as important as it is definite, for it shifts the centre of gravity in morality. Nevertheless the distinction is relative rather than absolute. Some degree of reflective thought must have entered occasionally into systems which in the main were founded on social wont and use, while in contemporary morals, even when the need of critical judgment is most recognized, there is an immense amount of conduct that is merely accommodated to social usage. – John Dewey, The Later Works of John Dewey, Volume 7, 1925 - 1953: 1932, Ethics: Chapter 10

(慣習的道徳と反省的道徳は、明確に、知的に区別される。前者は行動の基準や規範を先祖代々の習慣の中に位置づけ、後者は良心や理性に、あるいは思考を含む何らかの原理に訴える。この区別は明確であると同時に重要である。というのは、道徳の重心が移動するからである。とはいえ、この区別は絶対的というよりもむしろ相対的なものである。ある程度の反省的思考が、時折、主として社会慣習に基づいた体系に入り込んでいたに違いないし、現代の道徳においても、批判的判断の必要性が最も認識されているときでさえ、単に社会的慣習に合わせただけの行為が膨大な量存在するのである)―ジョン・デューイ『倫理学』1932:第10

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両極の第1のもの(=慣習)が圧倒的である混合物においては、道徳的生は、振舞いと理想の追求との問の混乱から免れていると期待できよう。行為はその根源性を保ち、そして要求されればいつでも振舞いの習慣からわき上がる。行為それ自体は、理念的思索の躊躇によって抑制されたり、あるいは哲学の才能と哲学的教育の成果とをその状況に発揮させなければならないという自覚によって抑制されたりして、問題あるものになることは決してないだろう。行為への確信は、よくしつけられた、慣習による道徳的生に属するもので、ゆらぐことがないだろう。そして道徳的生の一貫性は、諸価値の反省的関係が生に与えうるような抽象的単一性からは生まれないだろう。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 80

 要は、慣習的道徳は、反省的道徳が被(こうむ)る御難を免れると言いたいのであろう。

だがそれに加えて、道徳的生のこの混合形態は、反省的道徳から生ずる利益――批判し、自らを改造し説明する能力、社会慣習の範囲を越えて広まっていく能力――も享受すると考えられよう。それは自らの道徳的規準や目的についての適切な知的自信も持つだろう。しかもそれは、道徳的批判が道徳的振舞いの習慣の位置を奪ってしまうとか、道徳的思索が道徳的生を解体してしまうとかいった危険を伴わずに、以上のものすべてを享受するだろう。(同)

 さらに慣習的道徳は、反省的道徳のような危険を伴うことなく、本来反省的道徳の利得すら得られるのだということである。一方、反省的道徳の方は、様々な問題がある。

極の第2(=反省)の方が圧倒している混合の形態をとる道徳は、私の考えるところでは、それを構成する部分の間の永遠の緊張関係に苦しむだろう。自覚的な理想追求の道徳が主導権を握り、振舞いの習慣を解体することになろう。行為が要求されるとき、思索か批判がそれに取って代わるだろう。振舞いそれ自体は問題的なものとなり、イデオロギーの一貫性のうちに自信を求めるだろう。完壁を求めることは、安定していて柔軟な道徳的伝統の邪魔になるだろう。その伝統のナイーヴな一貫性よりも、自覚的な分析と総合とから生ずる統一の方が高く買われるだろう。道徳的振舞いの迅速な習慣よりも、知的に弁護しうる道徳的イデオロギーを持つ方が重要と思われるだろう。(同、p. 81

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