オークショット「バベルの塔」(4) 人間活動の詩的性格

この形態の根本的な欠陥は、その優越している方の極の根本的な欠陥――あらゆる人間活動の詩的性格の否定――である。思考の散文的伝統のおかげで、我々は次のような想定に慣らされてきた。それはすなわち、道徳的活動は、分析してしまえば、存在すべき理念を現実の実践に翻訳すること、理想を具体的に存在させることであるとわかるだろう、という想定である。そして我々は他ならぬ詩をこれらの用語で考えるのにさえ慣らされてきた。まず「心の欲求」(理想)があり、そしてその表現として、言葉への翻訳があるというのである。(オークショット「バベルの塔」(勁草書房)、p. 82)

 オークショットは、人間の活動には詩的性格があると言うわけである。

しかしながら、私はこの見方は間違いだと思う。それは不適切にも、教訓という形式を芸術と道徳的活動一般に押しつけているのである。詩は心の状態を言葉に翻訳したものではない。詩人の言うことと言いたいことは2つのもので前者は後者のあとに従って後者を化体(かたい)している、というわけではない。両者は同一のものである。詩人は言ってしまうまでは、自分が何を言いたいのかを知らない。そして彼は自分の最初の試みに「訂正」を加えるかもしれないが、それはすでに定式化された理念やすでに心の中で十分に形成されたイメージに一層ぴったりと言葉が対応するようにするための努力なのではなく、理念を定式化しイメージをつかむための努力の更新なのである。詩それ自体より先には何も存在しない――おそらく詩的情熱を別としては。そして詩について真であることは、思うに人間のあらゆる道徳的活動についても真である。(同)

 詩人は、心に浮かぶ「想い」を言葉にしているのであって、頭に刻み込まれた「理想」を言葉にしているのではないということだ。

道徳的諸理想は反省的思考の産物、現実化されざる理念の言語的表現であってそれが(正確さは様々だが)人の振舞いに翻訳される、というわけではない。それらは人の振舞い、人の実践活動の産物であって、反省的思考は後からそれらに部分的で抽象的な表現を与えるのである。よいことや正しいこと、あるいは合理的振舞いと考えられることは、状況に先立って存在するかもしれない。しかしそれは、生まれつきによってではなく技芸によって決定されるさまざまの振舞いの可能性の一般化された形態としてにすぎない。(同、p. 82

 道徳的理想は、人の実践活動が一般化され抽象化されたものである。問題は、この理想が具現化され実践されるのかどうかということであるが、道徳活動の実践は、理念よりも慣習に依拠されるものであろう。

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