オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(3)職業を学ぶとは

もしこの専門化を「職業教育」の方向へ向かわせることになれば、職業教育は最初からきちんと行なわれるべきであり、芝居のまねごとのようなものからはじめられるべきではないという英国の誇るべき伝統と矛盾することになる。職業を学ぶとはあることをどう行うかを学ぶことであり、その職業を演じる仕方を学ぶのは、その準備として良いこととはいえない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 368-369)

 日本の板前修業でも、いきなり包丁を持たせてもらえはしない。昔は「下積み3年」などと言われていたようだ。どんな仕事でも華やかな部分だけで成り立っているわけではない。目に見えない部分によって支えられていることを理解することが大切である。オークショット流に言えば、「技術知」(technical knowledge)を支える「実践知」(practical knowledge)が大事だということである。昨今、大学教育が、就職に有利になるようにと、安易に職業訓練へと流されつつあることに、私は少なからず危機感を覚えている。

文明は現在の生活様式を規定し可能にしている技術の集まりである。これらの技術を学ぶこと、――法律家や医者、会計士や電気技師、農業技術者や自動車工や外交セールスマンなどの技術を学ぶことは、文明の全資本のうちの適当な部分を借りてきて、それを学び、利殖を生み出すことであり、そうした利殖はあるいは現在の消費に費やされ、あるいは技術の改良のため再投資される。

これらの技術はそれぞれ知識であり、多くはある程度の物理的器用さを伴っている。ただし、純粋に物理的な器用さ(コペント・ガーデン市場で荷車を器用に操作することなどはこれに近い)は技術とはいえない。なぜならそれは文明という資本をほとんど必要としないし、その器用さが生む利益(最小限の利益)はすべて現在の消費に使われてしまうからである。

これに対して、多くの知識を要する技術は、〔文明という〕資本を大いに必要とし(技術の習得に長い時間がかかることはその象徴である)、更に多くの消資されない利潤を生み出す。(同、p. 369

 1つのことをなすためには、全体を知らなければならない。が、全体を知るためには、部分部分を1つずつ身に付けていかねばらならない。こうやって部分と全体の往復運動を繰り返す中で、技術は少しずつ磨かれ、習得されていくのである。

 「職業」教育はこうした技術が習得される過程である。このような教育において、文明は、現在の生活様式に含まれる事柄と技術をそのまま反映している。もちろん、この生活様式は固定し完成したものではなく、これらの技術とそれが生み出す物が規定する現代の一般的方向に沿って進んでいる。また現在の生活様式は完全に一貫したものでなく、廃れつつある技術と勃興しつつある技術の両者からなっている。我々の生活においても、紋章学や手織機が動物発生学やコンピューターと並存しているのである。(同、pp. 369-370

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