オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(5)知的遺産を最大活用できる唯一の場
学校の生徒も熱心に本を読み、そこから知識を得、また自分自身について学び、どう振まうべきかを学ぶけれども、大学において彼はその同じ本から何か違ったものをつかむよう求められるのである。彼はたとえば、ギボンやスタップズ、ダイシーやバジョット、クラーク・マックスウェルやアダム・スミスを読み、その本が伝える情報が時代遅れであり、その処方箋は頼りにならないし、「職業」教育には役に立たないと考えるであろうが、にもかかわらず、大学教育にふさわしい何かを与えてくれると理解するのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 372)
時代状況が異なるから、たとえ名著と呼ばれる書物であっても、過去の著作がそのまま現代に通用するわけではない。が、考え方や発想は、今でも大いに参考となるものが少なくないということだ。だからこそ、名著は時代を越えて読み継がれていくのである。
第1に、大学とは、文明という知的資本全体を尊重し関与する人々の集まる場所である。大学は、知的遺産が損なわれないよう保つのみでなく、不断に失われたものを発見し省みられなかったものを回復し、散逸していたものを集めあわせ、損なわれたものを修繕し、再考し、修理し、再構成し、より理解しうるものとなし、再発行し、再投資するのである。原則として、大学は実社会の関心に左右されない。その関心方向は学術的考慮によってのみ決定され、大学が生む利益はすべて再投資される。(同、p. 372)
大学は、知的遺産の貯蔵庫である。ここに集積された知的遺産を大学人が管理する。大学人は、集められた知的遺産を用いて研究を進めることに存在意義がある。学生を教育するのは、二の次である。学生も、学習から研究へ知に対する取り組みの転換が必要となる。
第2に、大学において〔文明という〕知的資本は、蓄積された結果とか、権威的原則とか、確かな情報または知識の現水準として考えられているのではなく、様々な思考様式や知的活動としてあらわれるのであり、それらは各々自分自身の声、「言葉」で語り、互いに対話的に関係する、つまり互いに肯定あるいは否定しあうのではなく、間接的に承認しあい調整しあうのである。たとえば、大学において、科学とは情報の百科辞典あるいは自然認識の現状ではない。科学とは現在の活動であり、探求される対象について思考し語る仕方である。(同、p. 373)
知的遺産を蓄えているだけであれば、大学は只の「知的博物館」に過ぎなくなってしまうだろう。が、大学とは、「真・善・美」を追求すべく、知的遺産を最大限に活用することのできる唯一の場なのである。
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