オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(54)スピノザとヒューム

スピノザは、主著『エチカ』で、アリストテレスの中庸論と似た発言をしている。

Prop. XLVIII. The emotions of over-esteem and disparagement are always bad.

Proof.- These emotions are repugnant to reason; and are therefore bad.

定理48 過大評価や軽視の感情は、常に悪である。

証明 これらの感情は理性と矛盾するため、悪である。

Prop. XLIX. Over-esteem is apt to render its object proud.

Proof.- If we see that any one rates us too highly, for love's sake, we are apt to become elated, or to be pleasurably affected; the good which we hear of ourselves we readily believe; and therefore, for love's sake, rate ourselves too highly; in other words, we are apt to become proud.

定理49 過大評価はその対象を高慢にしがちである。

証明 愛のために、誰か自分を高評価し過ぎる人がいるのが分かると、私達は調子に乗って、心うきうきになりがちである。自分のことについて聞いた良いことはすぐに信じてしまい、愛のために、自分自身を高評価し過ぎる、別言すれば、高慢になりがちである。

スピノザは、競争に向かう人間性から平和に向かう2つの道筋の選択肢を示した。その一方は、恐怖と将来への賢慮から発生して国家の法と秩序に至るものであり、他方は、人間の生の環境に対する精神の力が提供する逃げ道である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 347)

 哲学者レオ・シュトラウスは言う。

True, both philosophers see self-preservation as the essence of man, but they mean very different things by the same term. Self-preservation, truly understood according to Spinoza, compels to theory; according to Hobbes, it compels to assuring the future, to peace and to the state. Therefore the essential content of Hobbes' moral philosophy is the peaceable attitude. -- Leo Strauss, Spinoza’s critique of religion: 229-230

(確かに、両哲学者(=スピノザとホッブズ)は自己保存を人間の本質と見做しているが、言葉は同じでも、意味するものは全く異なっている。スピノザに従って真に理解される自己保存は、理論を強制する。ホッブズによれば、それは未来を保証し、平和と国家を強制する。したがって、ホッブズの道徳哲学の本質的な内容は、平和的な態度である)―レオ・シュトラウス「スピノザの宗教批判」

his theory of natural law and his moral philosophy are essentially the same. Similarly, from Spinoza's ultimate assumption it follows that there is no immediate bond of union between his moral theory and his theory of natural right: he must refrain from enjoining the precipitous path to his goal in life on the common run of men, or even considering it as open to them. Since Spinoza's political theory cannot possibly be understood if it is confused with Hobbes', which has influenced the formulations adopted by Spinoza, the bases of the two doctrines must now be contrasted. – Ibid.: 230

(彼(=ホッブズ)の自然法と道徳哲学の理論は、本質的に同じである。同様に、スピノザの究極的な前提から、彼の道徳論と自然権理論の間には、直接的な結合の絆はないということになる。スピノザは、普通の人々の人生の目標への険しい道を享受することやそれが彼らに開かれていると考えることさえも慎まざるを得ない。スピノザの政治論は、スピノザによって採用された定式に影響を与えたホッブズのものと混同してはとても理解できないので、2人の教義の基盤をここで対比しておかねばならないのである)

またヒュームは誇りと謙虚さ(ホッブズと同様、彼はそれを恐怖と同視する)を、等しく自己中心的な単純な情念として取り上げて、両者を徳の生みの親と認めた。しかし彼は「自尊心」を「輝かしい諸徳」――勇気とか、大胆さとか、度量の大きさとか、「死がその恐怖を失い」、人間の生がその闘争的性質を失うような種類の栄光を求める努力とか――の親であると認めた。だがヒュームは誇りのメリットをその「気持ちのよさ」(それは快と同視され、謙虚さはフラストレーションと同視される)のみならず、その優れた「効用」にも見いだした(オークショット、同、pp. 347-348

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