オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(20)死学と化した政治の「職業」教育
when we ask our pupils to display their attainments by discussing such questions as Was Mill a democrat? or, Has the House of Lords outlived its usefulness? or, Would not Ghana do better with a Presidential system of government than a Parliamentary? or, Is Great Britain heading for a One-Party State? we may suspect that a not very high class 'vocational' education in politics is at work. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university: TWO
(「ミルは民主主義者だったのか」「貴族院は用済みとなったのか」「ガーナは議会制よりも大統領制の方がうまくやれるのではないか」「英国は一党独裁国家に向かっているのか」といった問題を議論することで、生徒たちに自らの成果を示すように求めるとすれば、あまり高級でない、政治の「職業」教育が行われていると疑われるかもしれない)――オークショット『大学における「政治」の研究』:第2章
先哲の偉業を傍観しているだけであれば、それは「死に学問」にしかならない。それでは活きた学問は身に付かない。
碩学(せきがく)安岡正篤(やすおか・まさひろ)は言う。
《本の読み方にも2通りあって、1つは同じ読むと言っても、そうかそうかと本から始終受ける読み方です。これは読むのではなくて、読まれるのです。書物が主体で、自分が受身になっている。こっちが書物から受けるのである、受取るのである。つまり吸収するのです。自分が客で、書物が主。英語で言えばpassiveです。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受身で、積極的意味に於(おい)て自分というものの力がない。そういう疑問に逢着(ほうちゃく)して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。虎関(こかん)禅師(ぜんじ)は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる、深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。
本というものは読まれたのでは仕様がないし、読まされたのでは大した力にはならぬ。どうしても自分が読まなければならぬ。よくアメリカの書物や雑誌等で見るのですが、哲学の先生が学生に言うのです、「君達の頭は吸取紙の様だ」と。吸取紙はよくインクを吸取るが、しかしそれ自体はインクの斑点でべたべたになる。それと同じことで、学生の頭はよくいろいろの講義を聞いて吸取るけれども、頭自体は知識のしみだらけになっておるという。誠に痛烈な意味深い言葉です。実際その通り。なにやら学だとか、なにやら理論だとか、なにやらイデオロギーだとかいうもののしみだらけになっておる。これでは駄目です。こういうものを雑識(ざつしき)と言い、ディレッタンティズムと言う。
そうではなくて自分から読む。そこではじめて研究というものになる。それによって得るところは自分の生きた所得になる、生きた獲物、生きた知識になる。知識にも色々あって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。しかし心照古教にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。受身になって、機械的に受取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならない》(安岡正篤先生講録『活学-人になるために-』(関西師友協会)、pp. 7-8)
※ディレッタンティズム:専門家以外の者が道楽や趣味から学問・芸術などの精神的活動、とくに芸術創作にいそしむこと。
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