オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(9)古典を学べ

 更に、大学はこのような教師たちの連合であり、また彼らの活動はその最善の教授法についての考え方を反映している。そのうち最も重要なもの(今やむしばまれつつあるが)は、思考様式(つまり「言葉」)を正しく得るためには適切な「文献」あるいは「テキスト」の学習が欠かせないという考え方である。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 375)

 「知的混沌」の中で<探究>するには、そこで用いられている<思考様式>を身に付けることが必要である。そのためには、定評のある文献やテキストを熟読玩味(がんみ)することが欠かせない。

すなわち、科学的思考はいわゆる「科学的方法」を学ぶことによってではなく、ある科学の分野を学ぶことによって最もよく習得されるという信念であり、歴史的思考はいわゆる「歴史的方法」を学ぶことによってではなく、過去のある事柄や断面の研究に携わっている歴史家を注視し学ぶことによって習得されるという信念である。(同)

 これを私なりに解釈すれば、<思考様式>は、抽象的な「方法論」を学ぶことによってではなく、具体的な文献やテキストの学習を通して見に付けるものだということなのだと思われる。

このことは、早とちりをする人には、大学を「職業」教育に近づけるものと受けとられるかもしれないが、それがそうではないことは、大学教育においては「テキスト」は情報の体系としてではなく「言葉」のパラダイムとして考えられていることから明らかである。(同)

 大学教育においては、文献やテキストから<情報>を得るというよりも、物の見方や捉え方、すなわち、米科学史家トーマス・クーンの言う「パラダイム」(知的枠組み)を手に入れるのである。

したがって、或る「文献」が(すなわち或る科学的研究、歴史の一時期、或る法制度や或る哲学が)研究対象としてより適切であり、当該分野の「言葉」のより明確なパラダイムを与えるという認識や、更に、この理由からして、学部学生が学ぶべきものはこうした「文献」や「テキスト」(つまり太陽物理学よりも化学であり、ジャワ現代史よりも中世イギリス史であり、ヒッタイト法やケルト法よりもローマ法であり、デモクリトス、ライプニッツ、リッケルトやベルグソンの哲学よりアリストテレスやヒュームやカントの哲学)であるという認識は、「言葉」は「文献」と結びついてこそ最も適切に学習されるという大学教育における認識と一致するものである。

更にこれは学習内容を決めるうえで便利でかつ適切な方法である。なぜならば、それには変更の余地が残されているし、また学部教育に関する各分野の教育基準(純粋に教育のためのものであり、学部学生の教育のために全く不適切な学者たちの学問上の関心などの職業上その他の考慮と無関係なもの)を示しているからである。(同、pp. 375-376

 要は、何よりも先ず、「古典」と称される、長く時代を超えて規範とすべき文献を学ぶべきだということになるであろう。

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