オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(15)社会主義に侵食された大学の政治学教育

大学における「政治学」教育をこうした「職業的」色彩から解放し、漠然とした言い方だが「リベラルな」性格を与えるために、これまで2つの教育方法が行なわれてきていると主張されるかもしれない。

まず第1に、我々はもはや政治の種々雑多な観察結果を伝えることに満足してはいない、政治の解剖は必要ではない、といわれている。我々は「分析し」(すばらしい言葉だ)、分析法を教授し、比較し(これもすばらしい)、比較学を教授し、理想モデルを構成し、仮説を設定し、将来の課題を定式化し、解決策を求めるべきだ〔といわれるかもしれない〕。これらのことは、その幾つかは疑いもなく、メリットがあろう。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 385-386

 これは社会主義の政治に関する話であろう。本書が書かれた時代(1962年)は、社会主義真っ盛りであったから、このように言わざるを得なかったのかもしれないが、社会主義の政治は、結局は非現実的妄想であったのであって、私はその功績を認めない。要は、社会を混乱させたに過ぎなかったということである。現実を捨象(しゃしょう)すればこそ成り立つ空想の世界にただ微睡(まどろ)んでいただけではないか。

誰も政治研究を無邪気なものとは思っていない。しかし、この政治研究はどれも、本質的に「職業的」問題、たとえば政治はどのように動いているのか、どのように改善されうるか、政治は民主的か等々の問題以外は取扱ってはおらず、そう意図されてもいない。(同、p. 386

 社会主義という偏頗(へんぱ)な「思考様式」を通して社会を見、分析するのが、さも科学的であるかのように振る舞い、その手法を植え付けようとしただけではないか。

その多くは、架空の「制度」「過程」「権力」、「エスタブリッシュメント」、「エリート」といった、あれやこれのステレオタイプに関心を向けてきたので、実際の政治組織や政治事件がしばしば不規則的であることを見落しがちであったし、その結果「職業」があまり役立たないことにもなっている。(同)

 現実の政治は其方退(そっちの)けで、社会主義という空想を理解するのに必須の言葉を身に付けたところで、現実社会では何の役にも立たない。

要するに、政治研究の複雑性や微妙性は我々の最初の素朴さに洗練さを付与してきているとはいえ、大学における「政治学」教育は依然として一種の政治のスタッフになるために必要なコースなのである。(同)

 社会主義を学習すればするほど、現実から乖離(かいり)してしまって、詰まるところ、「社会主義村」の中で生きていくしか道はなくなってしまうということである。

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