オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(21)大学にふさわしい政治学教育
我々の道のりは長い。しかも誤った道に踏み出してしまったので、大学にふさわしい政治学教育もすぐに進展するとは思われない。しかし、適切な方向に我々を導く2つの方策が存在する。
第1は、政治学部において、政治用語の使用を禁ずることである。我々は学問上の説明の「言葉」のみを用いるべきである。そして、政治的言い方が取上げられる場合でも、その使用と意味を探求し、それらを分析したり歴史的哲学的説明を行うためだけにするのである。政治的言い方自体が説明的表現であると扱われてはならない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 390)
が、これは短慮であろう。<政治学部において、政治用語の使用を禁ずる>などというやり方は、およそ自由主義的ではない。オークショットは自分の考え方が絶対的であると信じるからこそこのように主張するのであろうが、自由主義はこのような信念とは相容れない。
またいわゆる「政治理論」は一種の政治活動であり、それ自体が教授されるべきではなく、歴史的哲学的に説明されるべきものであることを認識せねばならない。(同)
大学での政治学教育はいかにあるべきかを一方的に断定すべきではない。オークショットのようにあるべき姿を主張することは構わないし、これを自ら実践することも問題はない。が、他者の教授法を改めるために、言葉の使用を制限してしまっては、統制主義である。
オークショットが危機感を抱いているのは、大学における政治の「職業」教育以外のものではないか。例えば、マルクス経済学のようなものが、政治の分野にまで侵食してきて、政治が現実から空想へと変容し、無政府状態(anarchy)が招来されることを危惧していたのではないか。あくまでも、私の憶測にすぎないが…
第2に、大学において我々は、情報の体系としての教科書の学習を指導するのではなく、適切な教科書による説明的言葉の用い方を教えるのであるから、「教科書」は注意深く、それにふさわしい教育上の基準から選択されねばならない。
しかし現状ではそうした適切な基準は全く採用されていない。〔採用されている基準といえば〕新聞でしばしば報道される地域であるかどうかとか、国家が新興国か強国であるかどうかとか、行政的施策が専門家からみて興味を引く重要なものかどうかとか、というものであり、こうした事柄であれば、大学の「教科書」として問題なく選択されると考えられている。
しかし、これらの基準は、最良のものではなく、それどころか、最悪のものである。なぜならそれは政治的な根拠にもとづくもので、教育上の根拠にもとづくものではないからである。(同、pp. 391-392)
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