オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(62)右往左往は前提の誤り【最終回】
普通の相互信頼の契約では決して最初の履行者になるな、と自然的な理性は我々に警告する。それはまた平和を求めることが我々の利益になると我々に語り、平和が発生しうる条件を示唆する。平和に必要な条件は、権威と権力とを兼ね備えた主権者の存在である。この主権者の権威は、すべての人がすべての人と結ぶ相互信頼の契約からしか生じない。その契約において、彼らは自分自身を治める自然権を主権者に譲渡し、また共通の平和と安全に関することについては、主権者のすべての命令をあたかも自分自身の命令であるかのように承認する。だがこの主権者がその命令を実現する権力は、このように服従を約した人々が現実に服従することからしか生じない。どこかで始まりがなければならない。そしてそれは理にかなった始まりだと示されなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 355)
「万人の万人に対する戦い」が自然状態だと前提するから、こんな不自然な理路を辿(たど)らねばならなくなるのだ。この前提を取り下げれば、感情や理性のある人々は平和を求めるのが普通であるから、<最初の履行者になるな>というような話は出て来ようがない。
約束を結んだほどの分別を持っている人々なら、それを守るほどの分別がある(つまり、自分の利益のありかを見て取ることができるほど、貪欲や野心やその種のものから解放されている)人々がどんな時でも十分に存在するだろうと期待するのは理にかなっているのではないか? そしてもしそうならば、最初の履行者になることは誰にとっても法外な危険ではなくなる。そしてこの契約の当事者は誰でも最初の履行著になるかもしれない。「これがかの偉大なリヴァイアサンの誕生である。……我々は不死の神の下で、我々の平和と防衛とをリヴァイアサンに負うているのである。(同、p. 355)
リヴァイアサンとは、旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる、地上最強の怪獣の名である。ホッブズは、この最強なるものを、人々が命を守るために契約を結んで設立したコモンウェルスだとした。
この説明は、主権を設立するこの契約の最初の履行者になるのが合理的であることは否定できないと証明しているのではなくて、単にそれに伴う危険は普通の相互信頼の契約に伴う危険よりもはるかに合理的である(あるいは法外な程度がはるかに小さい)と証明しているにすぎないのである。
そして私の理解するところでは、ホッブズが求めていたことは、それの合理性の証明であって、単にその方が相対的には合理的だろうという蓋然(がいぜん)性ではなかったのだから、私はこの説明が欠点か不十分さを持っているのではないかと疑わざるをえない。
この契約の最初の履行者となって馬鹿を見るという帰結を気にしない(ホッブズはシドニー・ゴドルフィンがそうだったと理解したような)人、「理性」ではなくて「誇り」の人を想定することによって、欠けているものをどの程度まで補うことができるだろうか。(同、pp. 355-356)
「万人の万人に対する戦い」が自然状態だという前提を無くせば、<契約の最初の履行者となって馬鹿を見る>というような話は雲散霧消するに違いない。【了】
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