オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(19)政治は生きている

if it is said that the manner in which 'politics' is taught in universities has not forbidden a connection with history and philosophy, the reply must be that the connection is often resented as a diversion from the proper concerns of 'political science', and that wherever it has been made it has been apt to be corrupting rather than emancipating. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university: TWO

(「政治学」が大学で教えられる方法が、歴史や哲学との結びつくことを禁じていないと言うなら、その結びつきは、「政治科学」固有の関心事からの逸脱だとして嫌がられることが多く、結びつけられた所では、解放というよりむしろ腐敗させる傾向が常にあったと答えざるを得ない)――オークショット『大学における「政治」の研究』:第2

'History' appears, not as a mode of explanation, but merely as some conclusions of allegedly 'historical' writers believed to account for the present structure or to forecast the future prospects of (for example) a political party, or to provide evidence relating to the origin or the efficiency of an administrative device. – Ibid.

(「歴史」は、説明の様式としてではなく、単に、(例えば)政党の現在の構造を説明したり、将来の見通しを予測したり、あるいは行政装置の起源や効率に関連する証拠を提供すると思われている「歴史」作家と称される人の成果として現れるのである)―(同)

History' is patronizingly admitted so long as it remains in the 'background' (whatever that may mean). 'philosophy' appears, not as a manner of thinking but as a misused word to identify what is believed to be a certain kind of interest in politics. – Ibid.

(「歴史」は、(それがどんな意味であれ)「背景」に留まる限り、恩着せがましく認められる。「哲学」は、考え方としてではなく、政治学におけるある種の利害と考えられるものを特定するために誤用された言葉として現れる)―(同)

Merely to extend our studies backwards a little way into the past in order to account for a piece of political conduct is not 'doing' history; it is indulging in a piece of retrospective politics which makes certain that the historical mode of thinking never properly appears. – Ibid.

(ある1つの政治行為を説明するために、研究を少し過去に遡(さかのぼ)らせるだけでは、歴史を「する」ことにはならない。それは、歴史的思考様式が正しく現れないことを確かめる1つの回顧政治に耽(ふけ)っているのである)―(同)

そして、プラトンやホップズやルソーやヘーゲルやミルの書物の中に、これらの思想家の政治的傾向が求められたり、また「自然法」、「一般意志」、「自由」、「法の支配」、「正義」、「主権」といった、本来哲学的に説明的な概念が、政治家の手にかかって規範的概念に変ってしまったり、更にはその命令的側面しか顧みられない場合には、哲学的思考法を学ぶ棟会は失われてしまっている。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 389-390)

 思考法を習得するためには、先賢の思考を追体験することが必要である。「上澄み」だけを手に入れたとしても、役には立たない。

こうして哲学的議論がいわゆる「政治理論」に変質し、それを「民主主義的」とか「保守主義的」とか「リベラルな」とか「進歩的」とか「反動的」と政治的レッテルを付けて呼ぶことが適当と考えられるようになるならば、政治の「職業」教育が再び押しつけられ、哲学者は物事の状態にかかわるのではなく説明の仕方にのみかかわることが理解されえなくなり、更に哲学的議論にとって唯一重要なことは首尾一貫性、明晰性、解明力および創造性であることが理解されなくなってしまう。(同、p. 390)

 政治は生きている。これを保持し、維持するための改革を施すためには、政治の「言語」と「思考様式」を身に付けていることが必要である。

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