オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(1)対話としての文明

 教育とは、指導と節制によって、自分自身について認識し自己を形成するための学習の過程である。必然的にそれは2つのものの折り重なった過程であり、その中で我々は「文明」と呼ばれるものに向かいつつ、その過程で文明にふさわしい自らの才能や素質を発明し、それを開発し用いるのである。何の文脈もなく自己を形成しようとすることは不可能である。その場合、文脈とは、学ばれる事柄だけでなくその教育のための指導と節制を含んでいる。(マイケル・オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」:『政治における合理主義』(勁草書房)桂木隆夫訳、p. 365)


 これは、英国における教育である。世界には、「文明」と呼ばれ得るものを持っている国もあれば、持っていない国もある。したがって、普遍的な教育というよりも、英国の教育事情として考察すべき問題であろうと思われる。

 文明はしばしば書物や絵画、楽器と作品、建物、都市、風景、発明、工夫、機械等々すなわち、人類が自然に刻印した成果と考えられている。しかしこれは、我々の行動の枠組である〔文明という〕第2の自然(とヘーゲルは呼んでいる)についての余りにも狭い(極めて素朴な)理解であろう。我々の生きている世界は、むしろ、上述の「物事」を生ぜしめる様々な感情や信念、イメージや観念、思考方法、言語、技術、慣行や作法から構成されている。したがって、世界を財としてではなく資本として、用いることによってのみ知ることができかつ享受しうるものとして、解するのが適当である。

なぜならば、上述したものはいずれも固定的で完成したものでなく、成果であると同時に将来への展望でもあるからである。この資本は、何百年にわたって蓄積され、使用によって利殖を生み、その一部は現在の生活に消費され、一部は再投資される。(同、pp. 365-366

 英国文明は、1つの生命体のごとく、新陳代謝を繰り返す。時に文明の成果を消費し、時に文明の新たな成果を生産する。

 しかしながら、別の観点からすれば、文明(特に我々の文明)は対話として考えることができる。すなわち、遺徳的実践的行為、宗教上の信仰、哲学的思索、芸術的瞑想、歴史的または科学的探究や説明などのそれ自身の言葉を持った様々な人間活動の間でくりひろげられる対話なのである。私がこれらの様々な思考と言論の多様性を対話と呼ぶ理由は、これら諸活動相互の関係が一方的に主張し否定しあう関係ではなく、相互に承認し調整しあう対話的関係にあるからである。(同、p. 366)

 言い換えれば、文明は生きており、変化し続けているということ。その変化変容の源が文明との<対話>にあると言うことである。

 したがって、もし教育が文明への道であるならば、教育とは物質的・情緒的・道徳的及び知的遺産についての方法を学ぶことであり、人間の発言の多様性を学び、それがおりなす対話に参加することと考えられる。もし教育を我々が自分自身を発見し陶冶(とうや)する過程と考えるならば、それは文明を鏡として我々自身を認識することなのである。(同、p. 366

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