オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(10)大学は現実社会とは異次元の世界に属するもの
読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は1年である。
むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えばだれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は、精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(ショウペンハウエル『読書について』(岩波文庫)斎藤忍随訳、pp. 95-96)
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大学教育…それは漠然とした不明瞭なものではなく、明らかにまごうことなく他の種類の教育とは区別されるものである。学部学生であるとは「余裕」を享受すること、すなわち実際的行動を考えることなしに思考し、処方箋を示したり実際的助言をすることなしに意見を述べることなのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 376)
大学は、現実社会とは次元の異なる世界に属するものと言うべきか。我々は、社会における様々な枠組みを<前提>として暮らしている。が、大学は、この枠組み自体をも研究対象とするものであるから、現存する枠組みを必ずしも是としない。したがって、大学は本来、既存の枠組みを用いて、実際的な答えを出すことが期待されるような存在ではないということである。
学校教育に関しては、一般に何が教えられるべきかを決めるのに困難はほとんどない。まず第一に、それはすべての人が学ぶのに適した事柄であろう。というのは学校教育の原則は特定の方向づけを持たないことにあるからである。更に、それを学ぶ目的が学ぶ者に明らかでなくとも学ばれうるもの、およびそのように学ばれる場合にそれが有害でもなく無意味でもないような事柄である。
教える立場から見れば、それは(ギリシャの詩を読むためのギリシャ文法のような)予備的知識であるか、それ自体一般的な一定の情報であるかだが、学ぶ側からみれば、幾何学や代数や自然地理学同様、何ら具体的有用性と結びついているものではない。要するに、それは、資本としてではなく、諸観念、諸信念、様々なイメージや実践のストックとして理解される文明(生徒が受け継ぐ文明)の一側面への入門となるのである。(同、p. 377)
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