オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(8)今ある「結果」を懐疑すること
最後に、大学はアカデミックな教育に従事する人々の集まりである。この点で、大学では教師の役割が際立っている。教師として彼らは他の教育機関の人々よりすぐれていることもあろうし、劣っていることもあろう。しかし彼らは、自ら自分の専門とは別の何かを学びつつあるものとして、異なった存在である。
彼らは一定の結論や事実や真理、公理等を教えるだけの、あるいは十分検証された原理を伝えるだけの人ではない。また彼らは、自分の専門分野の「現在の知識水準」に通暁することを主たる任務とする人でもない。彼らはそれぞれ、個々の分野で或る思考様式を探求しつつある人達なのである。((オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 374)
大学人の主たる任務は「真・善・美」の<探究>である。「結果」を最高の研究成果として学生に開陳し伝達する存在ではない。
にもかかわらず、彼らが教えるものは、彼らが学びつつあるものでも、極く最近学んだり発見したことでもない。学者として彼らは「知識の前線」に立っているが、教師として彼らは前線に立つ者とは異なる者でなければならない。更に、彼らが教えることは彼らが従事している活動自体でもない。学生は彼らの活動を受け継ぐ者では必ずしもない。科学者や歴史学者や哲学者は彼らと同じ者になれと教えるのではない。つまり、教師として彼らが行なうのは彼らの後継者を育てることではない(もっとも学生の何人かはそうなるかもしれないが)。(同)
今ある「結果」を懐疑せずにはいられない。それが大学人の性(さが)である。そして「結果」以前の混沌状態に戻って、再び<探究>を続けるのである。
直接に役立つとか現代に適しているとかの考慮に左右されずに、大学の教師が教え、伝えうることは、思考様式に親しませること、〔大学教育〕からみて、文明の知的資本全体をなす「言葉」に親しませることである。大学が提供するのは情報ではなく、思考訓練であり、それも思考訓練一般ではなく、特定の分野でその分野に特徴的な帰結を導きうるような思考の訓練なのである。そして、学部学生が他でもなく大学で習得するものは、歴史的に考え、数学的に考え、科学的あるいは哲学的に考えるとは何かについて理解し、これらを「科目」としてではなく生きた「言葉」として理解し、それらを探求し語る者を〔単に情報を与えるのとは〕異なった説明を企てている者として理解することなのである。(同、pp. 374-375)
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