オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(18)政治の新陳代謝に必要なもの
もし政治学の学習が其の説明言語に精通するにふさわしい機会であるとするならば、そうした機会は与えられるべきであろう。「政治学」の学習が「職業」教育から明確に区別され、大学に固有の教育として位置を占めることができるのは、まさにこのようにしてなのである。
これに対する主たる障害は、「政治学」がこれまで大学教育において「職業」教育的色彩を確立してしまっており、それを打ち捨てることができなかったことである。大学の「政治学」教授たちがこうした傾向について一般に深く考えているとは思われない。もっとも幾人かの人達はこうした傾向に情熱的に関わり、それを擁護してきてはいるが、こうした傾向はむしろ、彼らが世俗的な政治と行政の問題に第1次的関心を向けていることから、すなわち政治や行政の最新情報に目を奪われていることから、更に、どうしてこうした情報を大学教育において教授すべきでないのか、他の何を「政治学」の名において教えるべきかを理解しえないことから、生じている。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 388-389)
オークショットは、<「政治学」がこれまで大学教育において「職業」教育的色彩を確立してしまって>いるのを問題にしている。が、大学教授にはこのことに対する問題意識は低い。現在ある政治体制と行政制度について講じ、政治学の先賢の業績を披瀝することが大学における政治学教育であることを信じて疑いもしない。
が、オークショットは、本来あるべき大学の政治学教育は、「結果」ではなく、これを生み出した政治学の「言語」並びに「思考の枠組み」を教授し、学生に習得させることであると言う。
大学教授としての彼らの誤った姿勢は、彼らの研究方針にあるのではなく、自分の関心事を不適切にも学生に教授しようとするところから生じているのである。彼らは、大学教授たる者は政治研究を「時事問題」のレベルを超えてそれにふさわしい知的内容を与えねばならないと考えている。しかし、大学教育における「政治学」が研究「科目」ではなく「テキスト」の豊庫(→宝庫)であり、大学教育は政治を説明する「言葉」をいかに用いるかを学ぶ機会にすぎないことを認めてはじめて其の大学教育が達成される点を、彼らはほとんど理解していない。(同、p. 389)
今在る政治をそのまま墨守(ぼくしゅ)し続けていては、いずれ時代に取り残されてしまうだろう。政治が生き物である限り、新陳代謝が必要である。そのためには、どこをどう変えるのかを考えるための「思考の枠組み」と「言語」が必要だということである。
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