オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(16)「職業」教育と大学教育の相違
secondly, it will be said, in spite of our rather lamentable tendency to urge our pupils to acquaint themselves with the patterns and structures of current politics (that is, with the contents of political 'texts') and to provide for their needs by engaging experts on an ever increasing number of these 'texts', experts in the political 'systems' of India and Iraq, of Ghana and Indonesia, we do make a notable attempt to teach them how to use a "language', namely, the language of politics.
(第2に、現在の政治学の傾向や構造(即ち、政治「テキスト」の内容)に習熟するよう生徒に促し、増え続けるこれらの「テキスト」の専門家、インドやイラク、ガーナやインドネシアの政治「制度」の専門家を雇うことによって、生徒のニーズに応えようとしがちなのは少々嘆かわしいことなのだけれども、実際、「言語」、即ち、政治学の言語の使い方を教えようとしていることは注目に値すると言われるだろう)
The difference between ourselves and the pioneers of 'politics' in universities, it will be said, is that for us the study of the dull and doubtful detail of political structures and operations is designed as a means of teaching our pupils how to think politically. In short we have begun to recognize that 'politics' in a university is appropriately concerned with the study of a 'language' and with 'literatures' only as paradigms of this 'language'.
(大学の「政治学」の我々と先駆者との違いは、我々にとって、政治の構造や運営に関する退屈で疑わしい細部の研究は、生徒に政治的思考法を教える手段として考案されているということだと言われるだろう。要するに、大学における「政治学」は、「言語」の研究とこの「言語」のパラダイムとしての「文献」にのみに関わるのが適当であると気付き始めているのである)
しかし、できるだけ多くの「教科書」を学生に詰め込ませる試みや、実際に政治活動に携わっている者(あるいは引退した者)に安易に「権威」を認める傾向、および大学で「政治学」を教える際の「偏見」がはびこっていることなど(これらのことはすべて「職業」教育にしかあてはまらない)を考えると、上述の主張が正しいかどうか疑わしい。
しかし、たとえ現在の我々と開拓者達との間の違いが認められたとしても、政治の「職業」教育と大学における政治学教育を区別するためには更に何かが必要である。なぜならば、ここで主張されていることは、結局、我々が以前よりも優れた「職業」教育を行なっているということにすぎないからである。
すなわち、「職業」教育と大学教育の相違は「言葉」の性格の違いにある。現代政治の用語を教授することは政治の「職業」教育の本質をなす。政治用語を用いる技術、そこに示される思考法に熟知することは政治活動の本質をなすからである。
しかし、これは、学部学生に授けられるべき大学教育の特徴としての「言葉」と同じものではない。この「言葉」――歴史学、哲学、科学、数学の「言葉」――は、すべて説明言語なのであり、それぞれ固有の説明の仕方をあらわしている。
しかし、政治用語は説明言語ではない。それは、詩や道徳の言語でないのと同じである。物事の特殊「政治的」説明など存在しない。「政治」は、或る信念や意見を持ち、或る判断を下し、或る行動を行ない、説明的ではなく実践的考慮から思考することを意味する。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 386-387)
正直、私自身どれだけオークショットを理解できているのか自信が持てないのであるが、政治には、何かを説明するための「言葉」ではなく、ある1つの思考的枠組みの中で、問題を見極め、決断し、行動を起こしたり、処方箋を書いたりするための実践的な「言葉」が必要とされるということなのではないだろうか。
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