オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(58)叩き台を提示したホッブズ

主権者が必要とする権力を生む手段としても経験的に不可欠だとも認められるかもしれない。なぜなら多くの人々が、服従の行為と性向――それが主権者の権力を構成する――を求める主権者の権威を実際に承認するということは、彼らがそのように契約しなければほとんど想像しがたいからである。それにもかかわらず、契約はそれ自体では国家の十分原因ではない。それは権威を与えはするが、権力の方は約束するだけである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p.352

 authorityを「権威」と訳しているが、ここは「権限」とすべきではないか。契約によって承認するのは、主権者の「権威」ではなく「権限」だろうということである。言い換えれば、「権威」は契約したぐらいで与えられるようなものではないということである。

「平和」の状態を創設するために必要な権威と権力とを持った主権者の必要十分原因は、この種の契約に加えて、その契約を守ろうとする十分に広汎な性向(公然たる行為に現われた)である。というのも、主権者の権力とはその臣民の服従の性向を裏から言ったものにすぎないからである。

だから従って、この契約は自然状態で結ばれる他の契約とは違って守られるだろうと期待するのが合理的だ、ということを我々に納得させるような何らかの議論を我々はホッブズの説明の中に見つけたくなる。というのは、おそらく少々逆説的に聞こえるかもしれないが、平和を創設し契約遵守を強制するために必要な権力は、今や契約を結ぶことによってではなく、契約を守る過程において、つまり、服従の性向と行為において発生するように思われるからである。

要するに、自然状態で普通の相互信頼の契約の最初の履行者となることは常に不合理に違いないと我々は確信しているから、ホッブズが今やわれわれに対して証明しなければならないことは、この相互信頼の契約の最初の履行著になることは誰にとっても不合理ではないということである。

そして同時に述べておいてよかろうが、約束を2番目に履行すべき人々が約束を守るように強制する権力が存在するということからこの状態を発生させることはできないのである。なぜならば我々が求めているものは、いかにしてそのような権力が「設立」されるかについての、理解しうる説明だからである。(同、pp. 352-353

 皆が一斉に戦う権利を放棄し、平和を志向し、コモンウェルスを創設する、などという話は、やはり夢物語というしかない。が、現実世界をそのような「目」で見、分析を試みることは必ずしも無効とまでは言いきれないような気もする。

 ホッブズは、完成したものを提示したというよりも、「叩き台」を提示したと考えておくのが妥当だと言うべきではなかろうか。

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