オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(7)ゐつくは死ぬる手也(『五輪書』)

〔学問の〕現場を見学する資格を認められることは、他では与えられない教育の機会を享受することであり、そうした教育を大学は、中世以来、つまり神学博士たちの「騎士道的」論争が大学で行なわれ、学生たちが宗教上の神秘に立ち合い学んだ時代以来、様々な形で提供してきた。要するに、大学においては、他では行ないえない(あるいは容易に行ないえない)こと、すなわち、文明を様々な知的活動の束と考えそうした様々な思考様式の間の対話と考えることが行なわれる。そしてこれが大学教育の性格を規定するのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 374)

 剣豪宮本武蔵は言う。

《太刀の取り樣は、大指人さし指を浮べる心に持ち、たけ高指しめず、ゆるまず、くすし指小指をしむる心にして持つ也。手の內にはくつろぎのある事惡し。敵をきるものなりと思ひて太刀を取るべし。敵をきる時も、手の內に替わりなく、手のすくまざるやうに持つべし。もし敵の太刀をはる事。うくる事、あたる事、おさゆる事有り共、大指人さし指許(ばか)りを少し替る心にして兎にも角にもきると思ひて太刀を取るべし。ためしものなどきる時の手の內も兵法にしてきる時の手の內も、人をきるといふ手の內に替る事なし。總べて太刀にても、手にてもゐつくといふ事を嫌ふ。ゐつくは死ぬる手也、ゐつかざるは生きる手也》(宮本武藏遺稿『原本 五輪書』(敎材社):水の卷:一、太刀の持樣の事) (注)下線は筆者。

 「ゐつく」は、居着くと書き、固定化を意味する。谷沢永一氏は次のように解説する。

《太刀の動きにせよ、手の持ち方にせよ、すべて固定してしまってはなんにもならない。固定は死であり、自分が負けることだ。固定しないことが生であり、勝ちに結びつく。

 これを現代流に解説すれば、すべての手段は、あらゆる情勢の変化に対応できるように準備しておかなければならない、ということになろうか。つまり、武蔵は、“固定化”を徹底的に排除している》(谷沢永一『「五輪書」に学ぶ 勝ち方の極意』(ごま書房)、p. 114


 話が随分遠回りしてしまったが、詰まり、大学がただの知的遺産の権威となり固定化してしまっては、死したるも同然だということである。本来あるべき大学の姿は、「結果」を生み出した「知的混沌(こんとん)」へと戻ることである。「結果」は、努力の結晶であり、1つの成果であるけれども、「知的混沌」が活性化したればこそ、1つの結晶となって、「結果」が得られたことを忘れてはならないだろう。「知的混沌」が熱を帯びていることが、新たな「結果」を生むためには必要だということである。

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