オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(56)ブルジョア道徳

恥ずかしい死の恐怖は理性を呼び起こし、平和の好都合な条項や、その条項が人間の生のパターンになるかもしれない仕方を示唆し、従順な人の道徳を生み出す。この人は平和の方に左祖(さたん=見方)していて、正しく行動するために高貴さとか寛大さとか度量の広さとか栄光への努力とかを必要としない人である。

そしてこれがホッブズの見解である限りにおいて、彼はいわゆる「ブルジョア」道徳の哲学者として認められてきた。だがこれは、ホッブズの個人主義的人間観にもかかわらず、「共通善」の観念をほのめかし、それに向かっているように見える道徳的生のイディオムである。それが示唆しているように思われるものは、あらゆる状態の人々にあてはまる唯一の公認の人間環境の状態と、この状態を達成し維持する技芸としての道徳である。しかしこれには限定を加えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 348-349

 <ブルジョア道徳>というのが良く分からない。おそらく社会主義、共産主義が幅を利かせていた時代の名残なのではないかと思われるが、ここでこの時代背景を探ることは避ける。例えばで言えば、マルキスト戸坂潤は、1936(昭和11)年に『思想と風俗』という文章を書いている。

《道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。

 こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧(むし)ろ道徳のかかる観念自身が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至(ないし)文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる》

 ルサンチマン(怨恨)よろしく既存の社会体制に難癖を付け、共産主義の理想社会を夢見る。当然、社会秩序を支える道徳も気に入らない。だから<ブルジョア道徳>などと勝手な用語を宛(あ)て、人々に悪印象を植え付けて、これを叩くのである。

《ホッブズ倫理学は、イギリス・ブルジョアジーの発展初期に於けるこの云わば変則な必然性を表現した処の、やや変則なブルジョア倫理学に他ならなかったのである。やや変則なとは次の意味だ。

 一般にホッブズの哲学が機械論的唯物論の代表であったことは、今更説明を必要としない。その倫理学も全くこの唯物論の可能的な帰結の1つに過ぎない。だがこの唯物論がやがてジョン・ロック等の手によって、経験論にまで精練されることによって、イギリスの爾後(じご)の倫理学は名目上でも完全な観念論の典型となるようになった》(戸坂潤『道徳の観念』)

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