オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(14)大学教育に必要な政治の「言葉」と「思考様式」

この科学を教える目的は、学生に時の重要な政治問題を理解させ、政治的討論に効果的に参加させ、重要な政策問題を把握させ、デマゴギーへの抵抗を与え、専制者の嘘や圧制者の空約束に抗議させ、政治宣伝と真理の区別を知らしめ、公的権威が負うべき公正な批判を行わしめ、または政府の行動を評価する基準を知らしめ、更に民主主義が効果的に働くために不可欠な、政府に対する知的関心を有権者に与えることである。要するに、ここで述べているのは、疑いもなく政治の「職業」教育である。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 381)

 オークショットの言う「職業」教育とは、実用面ばかりに目を向けた教育ということである。が、本来あるべき大学教育とはそういった実用的なものではないとオークショットは言うのである。

政治学の古典に関しては、学生は依然、そこに含まれているとされる政治的行為についての教訓を発見するために、そしてそうした教訓の適切性を省察するために、それらの古典を読むよう求められている。政治的行為の教訓はいまだこのようにして書かれている。(同、p. 385

 学生たちは、今ある政治の問題に対する「処方箋」を政治学の古典に見出そうと躍起になりがちである。が、教訓を見出すために、デイヴィッド・ヒュームやJ・S・ミルやアダム・スミスなどの古典を読んでいるうちはまだ半人前でしかないだろう。より重要なのは、そこで用いられている「言葉」や「思考の枠組み」(paradigm)を理解することである。

我々の大学における「政治」教育の中に、政治の「職業」教育と私が呼んできたものとは異なった何か、つまり、知識の貯蔵庫としての「文献」研究を超えて、政治の「言葉」や思考方法を学ぶことに導く何かを求めることはむずかしい。(同)

 現在行われている政治は、学術研究の1つの成果であり、歴史的経緯の成り行きであり、様々な取捨選択の結果である。が、言うまでもなく、これが最善とは限らない。時が過ぎ、環境も変われば、政治も変わらねばならない。今ある政治を検証し、必要があれば変更する。そこで必要となるのが、政治はいかにあるべきかを考えるための「言葉」であり「思考様式」である。政治の「言葉」と「思考様式」が身に付いていなければ、あらたな政治を考えることなど不可能である。

実際、大学の「政治」教育についての最近の最も包括的な概説…は、悪びれることも弁明することもなく、この「職業的」教育あるいは政治参加のための学習が大学教育にとってふさわしいと是認している。ある程度の混乱はあるものの、〔大学教育の可能性として〕別の方向を求めようという傾向はほとんど存在しない。(同)

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