オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(12)政治の「職業」教育とは

実際、現代世界で行われているような政治のスタイルはその時々において数多くの参加者を必要とし、また受け入れている。更に政治解説や政治的接待を行なう人々はいうまでもなく現在の生活の特徴となっているが、それに従事するには政治の知識が必要となる。このように考えると、政治の「職業」教育は、他の職業の場合よりも多くの、より広範な学生にとって必要であり、したがってそれが対象とする学生の区分はそれほど明確に限定されない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 378)

And if we hesitate to follow those who find it to be an appropriate 'vocational' education for every citizen in a 'democracy', or for a sufficient number to leaven the whole, then it may perhaps be recognized as a 'vocational' education appropriate to those who are, or who wish to be, politically self-conscious. -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university: TWO

(そしてもしそれが「民主主義国」内のあらゆる市民にとって、あるいは全体を徐々に変化させるのに十分数にとって適切な「職業」教育であると見なす人々に従うのをためらうならば、それはおそらく、政治的自意識のある、あるいはそうありたいと願う人々に相応しい「職業」教育として認識されうるかもしれない)―オークショット『大学における「政治」の研究』:第2

But this does not entail any modification of its character as a 'vocational' education which here, as elsewhere, is an education designed to impart a body of reliable knowledge necessary in the successful exercise of a more or less particularized practical activity. And if the knowledge imparted here is used by some continuously and by others intermittently, by some professionally and by others incidentally, this does not distinguish it from (for example) the knowledge imparted in a professional legal education which is a necessary part of the equipment not only of those who practise the law as a profession but also of many who are engaged in many other businesses and occupations. – Ibid.

(しかし、このことは、他の場合と同様に、ここでも、事実上特定された実践活動を上手く実行する際に必要な一連の確かな知識を与えることを目的とした教育である「職業」教育としての性格を何ら変更することを意味するものではない。また、ここで授けられた知識が、ある人々は継続的に、またある人々は断続的に、ある人々は専門的に、またある人々は付随的に使用するとしても、このことは、例えば、職業として法律業を営む者だけでなく、他の多くの職業に従事する多数も必要な道具の一部分である専門の法律教育において授けられる知識と区別されるものではない)―(同)

そして最後に、政治の範囲、信頼性及び一貫性(更に政治に参加する者が知っておくべきと考えられる事柄すべて)についてあらゆる疑問が生じうるとしても、政治に関しては「職業」教育に特徴的な知識である考え方や話し方の現代的慣行は何もないとか、こうした知識は教授されえないと考えることは馬鹿気た揚げ足取りであろう。

事実、こうした知識は莫大な量が存在し、その多くが余りに漠然と扱われているので、そうした知識をビーバーのようなねばり強さで探索し、大法官庁のバリスターのような几帳面さで整序づけることが必要なのである。政治も、その外観においては、水道工事や家事や司書や農業やファゴット作りを教えるのと同様な仕方で教えてはいけない理由はないし、実際、政治はそのように教えられているのである。(同、pp. 378-379

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