オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(57)個性の道徳の哲学者

ホッブズはカントや他の哲学者と同様、典型的に個性の道徳の哲学者である…第1に、ホッブズは主として国法に従う動機に関心を持っていた。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 349)

he is less concerned with what a man might otherwise do with his life than with the minimum conditions in which the endeavour for peace could be the pattern of conduct for even the least well-disposed man. These minimum conditions are that there shall be one law for the lion and the ox and that both should have known and adequate motives for obeying it. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes: SIX

(彼は、平和のための努力が、最も非協力的な人でさえ行動規範となり得る最小限の条件ほど、人が自分の命をどうするかということには関心がない。これらの最低条件は、ライオンや牛には1つの「掟」があり、両者とも分かっているはずであり、それに従うに十分な動機があるということだ)

 「ライオンや牛にさえ周知された掟が(神の意思として)ある(shall be)」というのは、言うまでもなく、ホッブズが考えた勝手な理屈である。「ライオンや牛にさえ周知された掟があるのなら、最も非協力的な人間でも国法に従う動機はある」などという話は、まったく非論理的である。

第2に、ホッブズはこの別の気分も持っていて、そこでは誇りと自尊心とは平和を求める努力の十分な動機を与えられると認められていた。そしてこの気分のとき、彼は誤解の余地なく個性の道徳(the morality of individuality)の哲学者である。この道徳のイディオムは「貴族的」である。そしてそれがホッブズの著作の中に反映しているのを見つけることは不適当でも意外でもない。彼は(主たる欲求が「栄える」ことである人々のために書かなければならないと感じてはいたが)自分自身では、人間を生存よりも繁栄よりも名誉に関心を持つ方がふさわしい生き物として理解していたのである。(オークショット、同)

 以上がオークショット「ホッブズの著作における道徳的生」の本論である。これではホッブズが何を言いたかったのか、否、オークショットがそれをどう理解したのかが分からない。勿論、私自身の勉強不足、能力不足も大きいのであるが、やはりホッブズの論旨が明快でないということが確認されたのではないかと思う。

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オークショットは、「補講」を付け加えている。

 「平和」が存在し契約が変わらずに長続きするのは、平和を実現し契約遵守を強制する主権者がいるときに限られる。この主権者は、その努めをはたすためには、権威(すなわち、権利)と権力とを持っていなければならない。彼が権威を獲得すると想像しうる唯一の方法は、すでに述べた種類の契約によるものだけであり、また権威を持つためにはこの契約ほど必要なものはない。従ってこのような契約(あるいはそれに類するもの)は、国家に不可欠の「原因」と認められよう。(同、p. 352

 契約は契約でしかない。それが権威となるわけがない。

 また、訳文は「権威(すなわち、権利)」となっているが、このrightは「権利」ではなく「正当性」とすべきではないか。

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