オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(59)不合理なホッブズ解釈

第1に、ほかの契約者もその約束を守るだろうとは合理的に期待できなくてさえも、この契約の最初の履行著になることは理にかなっている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 353)

 他の契約者もその約束を守るだろうと合理的に期待できないのであれば、普通、この契約の最初の履行著になることは理に適っていないということではないのか。

さらに、契約者たちのかなりの部分が約束を守るだろうと実際合理的に期待できるのであり、この契約の場合は(普通の契約と違って)、それだけでも最初の履行者になることを不合理ではなくしてしまうのである。(同)

 果たしてそうか。契約者全員が約束を守らなければ「平和」は得られない。契約者の中に約束を反故(ほご)にして、戦う権利を行使しようとするものが現れれば、独り勝ちになって、他はこの独裁者に平伏(ひれふ)さなければならなくなってしまう。これが果たして合理的な判断と言えるのだろうか。

 第1に、確かにこの契約の当事者はいくらかの危険を冒している――もし彼の服従する、権威ある主権者が、他の当事者たちの服従を強制できず、彼らも服従することを合理的には期待できないならば。それにもかかわらず、それは法外な危険ではない。なぜなら彼が失うかもしれないものは、得られるかもしれないものに比べれば取るに足りないものだからであり、また、事実誰かがこの契約を最初に履行しない限り、平和のために不可欠の「共通権力」は発生しえないからである(同)

 成程、この理屈では、誰かが最初に履行の危険を冒さねばならない。が、だからといってこの履行は決して合理的ではない。

主権者の権威の行使を授権する契約と他の相互信頼の契約との重要な相違点を見て取り、その帰結として、この契約では最初の履行者になることが合理的である(同)

 成程、主権者に権限の行使を授権する契約と、抜け駆けをしないという相互信頼の契約とは中身が異なる。が、そのことが契約の最初の履行者になることを合理化しない。

 主権者の権威を承認して彼に権力を与える契約とそれ以外の相互信頼の契約すべてとの間には重要な相違点があるが、その1つは、前者は当事者のすべてが振舞うと約束した通りに振舞わないとしても、効果的に実行されるかもしれない、ということである。(同、pp. 353-354)

 詰まり、主権者の権限を承認し、権力を与える契約に背(そむ)く人達が出て来ても、主権者は<効果的>に権力を行使できる<かもしれない>(may)と言うのであるが、どうしてそのように考えることが出来るのか。主権者の権力行使の最たるものは法律の制定であるが、これを認めない勢力があってもその法律は有効足り得るのだろうか。そもそも<効果的>かどうかはどうやって判断することが可能なのか。また、<かもしれない>というのは、そうでないかもしれないというのと同等であり、根拠薄弱と言わざるを得ない。 

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達