オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(6)大学教育とは
同様のことは数学や哲学や歴史にもあてはまる。それらは思考様式であり、結果を伝達するだけの死んだ「言葉」ではなく、絶えず探求され、用いられつつある。たとえばメンデルの遺伝理論や物質の分子構造、あるいはパーキンソンの法則のように実際上の利益を生み実生活を動かしている原則、学説や理論も、大学においては、更なる理論的発展のために再投資の価値があるものと考えられており、その再投資はそれぞれの分野の思考表現様式の探求、「言葉」の探求に向けられるのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 373)
大学は、「結果」をただ集積し保存するところではない。「結果」を評価し、変更を加えるのみならず、「結果」を導き出した思考体系自体に変更を加え、新たな知の世界を模索探求し続けているのが大学というところなのである。
第3に、大学は学問と研究の場であるのみならず、教育の場でもある。そしてその教育を際立たせているのは大学自体の性格である。大学で学ぶとは学識ある個人教授の下で学ぶことでも、話術巧みで物知りの解説者についていろいろな物事を見てまわることでもない。それはそれで教育であるが、大学教育とは違う。大学教育はまた第一級の図書館に自由に出入りすることでもない。
大学教育とは、先程述べた〔科学的〕活動が〔各分野における思考表現様式の絶えざる探求〕という仕方で行なわれている現場に自由に出入りすることを享受することである。これが大学教育を他の教育、――すなわち、学校教育、特殊な「職業」訓練や様々な技術が学ばれる科学技術専門学校や少数の学生のみを受け入れる専門研究所における教育、及び個別分野の個人教授によって授けられる、デリンジャーが若きアクトンに行なったような教育――から区別するものなのである。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、pp. 373-374)
定式化された「結果」であれば、教師が学生に教え伝えることも可能であろう。が、大学にあるのは、「結果」を生み出す前の形無き「知の混沌(こんとん)」である。「混沌」は、感じることは出来ても知ることは出来ない。大学における活動に実際に参与参画することによって「感化」されるものなのである。
職人の世界では、しばしば「師匠の技を盗む」と表現されるけれども、これは、定式化されていない<技>というようなものは、言葉を通して教え、教えられるものではなく、見様見真似(みようみまね)で身に付けていくものだということである。大学教育もこれと似たところがあるのではなかろうか。
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