オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(2)学校教育は事を為すための下準備

学校教育は単に初期教育あるいは単純教育ではなく、固有の性格を有している。それは、重要なことを話す以前に話すことを学ぶのであり、そこで教えられるのは、必ずしも内容の理解を伴わずに学ばれるものであるが、こうした学習は有害でもナンセンスなものでもない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 368)

 学校教育の主目的は、将来、事を為(な)すための「下準備」(front-end)である。例えば、意思疎通を図るためには、必要十分に話せなければならない。詰まり、話せるようになることが不可欠である。この前段階の準備こそが、学校教育に求められるのである。

what is taught must be capable of being learned without any previous recognition of ignorance -- Michael Oakeshott, The study of ‘politics’ in a university: ONE

(教えられるものは、事前に知らないということに気付かぬうちに、学ぶことが出来なければならない)


我々は、8×9が幾つか判らないとハッと気がついて掛け算表を学び始めるのではないし、あるいは、エドワード一世の戴冠(たいかん)がいつか判らないといって英国国王の系譜を学び始めるのでもない。我々は学ぶように言われてこれらの事柄を学校で学ぶのである。(オークショット、同)

 社会の構成員として、知っておかねばならないことを事前に学ぶのが学校教育という場なのである。

学校教育では特定の方向づけはなされない。それはいまだ個人の才能や素質と関係するものではなく、そうした才能や素質が認められたとしても(それはありうることだが)学校教育の方針はそれらを伸すことではない。学校では自分の気の向くままにすることは許されないのである。(同)

 知っておくべきことは、個人差があるだろうが、学校教育は集団教育なので、最大公約数として、みんなが共通して知っておかねばならないことを学習することにならざるを得ない。

現在の学校教育期間は以前に比べて長くなっている。10年間以下ということはないし、14~5年間の場合もある。そしてその期間が終る前に「専門化」とよばれる事柄が教育に現われはじめる。これは私は好ましくないことであると思う。

だが、学校教育にこうした誤りを押しつけてきた人々の幻想やそれを助長してきた悪しき圧力は歴然としている。その結果、学校教育と他のレベルの教育との誤った重複が増大し、学校教育に本来属することが、職業教育にも大学教育にも属さない、またその妨げとなるような「専門化」のために、不幸にも制限されている。すなわちこの「専門化」の名の下で学習の範囲が窓意(しい)的に限定され、かといってより深く特定の方向での学習がなされる訳でもないのである。(同)

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