オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(4)職業教育で学ばれるもの
「職業」教育で学ばれるのは「作品」あるいは「テキスト」であって、「言葉」ではない。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 371)
このオークショットの哲学的な表現を私なりに解釈すれば、職業教育とは、その職業はかくあるべしという「答え」を学ぶものであって、その職業はいかにあるべきかという「問い」を探求するものではない。詰まり、職業教育で学ばれるのは、その職業を遂行するために社会が求めるところの、出来合いの手法であり、既成の技術なのだというである。
習得されるのは、権威によって示される知識であって、それを生み出した思考様式に習熟することではない。たとえば、職業教育において学ばれることは、科学的に考えることとか、科学的問題や命題をどう見つけだすかとか、科学の「言葉」をどう用いるかではなく、我々の現在の生活に資する科学の産物の利用の仕方である。
あるいは、もしこの区別があまりに難しくきこえるならば、職業教育では、言葉を語ったり新しいことを述べるという意味で「生きた」言葉を学ぶのではなく、「死んだ」言葉を学ぶのであり、単に情報を得るために「作品」や「テキスト」を読むにすぎないのである。習得される技術は、情報を用いる技術であり、「言葉」を語る技術ではない。(同)
職業教育は、権威に裏打ちされた「知識」を伝達するだけであって、「知識」そのものを客観的に評価するものではない。詰まり、「知識」に修正を施したり、自ら新たな「知識」を生み出すことを可能とする「理論的枠組み」(paradigm)に精通するものでもないということである。
私の理解では、大学教育は学校教育とも「職業」教育とも全く異なるものである。それは、教えられる事柄(およびそれを定める基準)およびそれをどのように教えるか、の点で異なっており、また大学教育が専門化される場合でも(大学教育は専門化される必要はないが、「職業」教育はそうはいかない)、専門化の原則が「職業」教育のそれとは異なっている。
あるいは、これがあまりに教条主義的ならば、次のように言い換えうるだろう。つまり、学校教育とも「職業」教育とも明らかに異なる教育があり、それはこれまで何百年もの間大学と呼ばれる機関の関心事であったということである。簡単に言うならば、大学教育が学校教育や「職業」教育と異なるのは、それが「作品」の教育ではなく「言葉」の教育だからであり、それが説明言語(あるいは思考様式)の使用と習得に関わり、処方箋を示す言語に関係するのではないからである。(同、pp. 371-372)
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