オークショット「政治教育」(11) 伝統もまた不易不変ではない

 いかなる詩人も、またいかなる芸術家も、それだけで完全な意味をもつものはない。その意義、その評価は、過去の詩人や芸術家たちに対する関係の評価にほかならない。その人単独ではこれを評価するわけにゆかない。比較、対照するために、これを死者のなかにおいてみなければならない。わたしはこれを審美的な批評の一原理としていっているので、ただたんに歴史的批評の原理としてのみいっているのではない。このように、ひとりの詩人や芸術家が過去に順応し一致しなければならないといっても、それは一方的なものではない。(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」:『エリオット全集』(中央公論社)第5巻 深瀬基寛訳、pp. 7-8)

 T・S・エリオットのこの論説は、詩人と伝統との関係について書かれたものであるが、この詩人を政治行動と置き換えて考えれば、政治行動と伝統の関係について考えることが出来る。政治行動の意味は、過去の政治的業績との比較対照の中で評価されねばならない。

ひとつの新しい芸術作品が創造されると、それに先立つあらゆる芸術作品にも同時におこるようななにごとかが起る。現存のさまざまなすぐれた芸術作品は、それだけで相互にひとつの理想的な秩序を形成しているが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が入ってくることにより、この秩序に、ある変更が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでにできあがっているわけであり、新しいものが加わったのちにもなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の全体がたとえわずかでも変えられなければならないのである。こうして個々の作品それぞれの全体に対する関係、釣合い、価値などが再調整されてくることになるのだが、これこそ古いものと新しいものとのあいだの順応ということなのである。(同、pp. 7-8

政治行動がこれまでの政治的業績に順化し、その1つとなることによって旧秩序にどのような変化が生じ、新秩序が構築されたのかを判断し評価しなければならないということである。

伝統の内のどんなものも、長い間まったく変化を受けないままでいるわけではない。すべては推移するが、どれも恣意(しい)的に変るわけではない。すべては、そのとなりに偶然あるものとの比較によってではなく、全体との比較によって現われてくる。そして行動の伝統は、本質と偶有性の区別の余地を残さないから、それについての知識は、不可避にその細部についての知識たらざるを得ない。要点だけを知るのでは、何も知ったことにはならないのだ。(同、p. 8

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