オークショット「合理的行動」(1) ヴィクトリア朝のデザイナーたちが求めた「合理性」
「狂人」――我々はその行為を「不合理的」だと認める――は、必ずしも自分の企図を成し遂げることに失敗するわけではない。また我々は、議論においてさえ、誤った推論にもかかわらず正しい結論が得られることがあることを知っている。(オークショット「合理的行動」玉木秀敏訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 92)
<自分の企図を成し遂げる>こともあると言うのなら、「狂人」の行為は、必ずしも<不合理>だと言えないということである。むしろ狂人は狂人なりに合理的に振る舞っているのではないかとさえ思われる。また、<推論>の正しさと<結論>の正しさも、必ずしも比例しないというのもまた事実であろう。
合理的に考えれば、正しい結論が得られるわけではない。合理的に考えても、答えが間違っていることもあれば、合理的に考えなくても、答えが正しいこともある。詰まり、合理的手法をとるかどうかは答えの正しさと連関しないということである。
さて、オークショットは、19世紀後半に流行した<ブルーマー>を取り上げる。
https://twitter.com/MuseeMagica/status/1395861648804433924
ブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的な服装」であると主張された…彼らは自転車を進ませる活動にもっぱら注意を向けていた。ある一般的な設計からなる自転車と人間の身体の構造とが考慮され互いに関連づけられねばならなかった。これ以外の考慮はすべて、デザインされる衣服の「合理性」の決定に重要でないと考えられたがために打ち捨てられてしまった。特にデザイナーたちは、女性の衣服に関する当時の偏見・因習・民俗を断固として考慮しなかった。つまり、これらは「合理性」の観点からすれば状況を制限するものでしかないと考えられるに違いない。したがって、この目的のために「合理的」な衣服をデザインするという企画の第1段階は、心をすっかり空虚にすること、つまり先入観を意識的に払拭しようと努力することでなければならない。もちろん、ある種の知識――力学と解剖学の知識――は必要とされるが、しかし人間の思考の大部分はこの企画の障害物として、つまり無視する必要のある邪魔物として現れる。(同、p. 93)
合理的成果を得るための第1歩は、例によって、「頭の中を一定空っぽにすること」(a certain emptying of the mind)である。次に、空っぽになった頭の中に、合理的な考え方が注ぎ込まれる。このことによって合理的に考えることが出来るようになるわけである。
ヴィクトリア朝のデザイナーたちが求めた「合理性」は、永久普遍の特性、つまり意見だらけの世界から解放され確実性の世界に打ち据えられた何かであった。(同、p. 94)
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