オークショット「合理的行動」(12)<実践知>の欠けた「正解」
All actual conduct, all specific activity springs up within an already existing idiom of activity. And by an 'idiom of activity' I mean a knowledge of how to behave appropriately in the circumstances. – Michael Oakeshott, Rational conduct: seven
(すべての実際の行動、すべての具体的な活動は、既存の活動の様式内で生まれてくる。そして、「活動の様式」とは、現場での適切な振る舞い方についての知識を意味する)
観念の世界において、人はいかに行動すべきかを抽象的に考えるのではなく、実際の現場では、慣習的道徳や倫理に沿ってどのように振る舞うべきかが選択されるということである。
Scientific
activity is the exploration of the knowledge scientists have of how to go about
asking and answering scientific questions; moral activity is the exploration of
the knowledge we have of how to behave well. The questions and the problems in
each case spring from the knowledge we have of how to solve them, spring from
the activity itself. – Ibid.
(科学的活動とは、科学的な問いを立て、それに答えるために、科学者が持っている知識を探求することであり、道徳的活動とは、善く振る舞うために、我々が持っている知識を探求することである。各事案の問題は、それの解決法について我々が持っている知識から生まれ、活動自体から生まれる)
And we come to
penetrate an idiom of activity in no other way than by practising the activity;
for it is only in the practice of an activity that we can acquire the knowledge
of how to practise it. We begin with what we know -- as scientists, with what we
know of how a scientist works; as moral beings, with what we know about how to
behave well -- and if we knew nothing we could never begin. – Ibid.
(だから、活動を実践すること以外に、活動の様式は理解できないのである。というのは、活動を実践することによってしか、それをどのように実践すればよいかについての知識を得られないからである。科学者であれば、科学者の仕事ぶりについて、道徳的な存在であれば、善き振る舞い方について知っていることから始めるのであり、何も知らなければ、決して始められないだろう)
Gradually, and by
a variety of means, we improve and extend our first knowledge of how to pursue
the activity. Among such means (though in a subordinate position, because it
obviously depends upon the achievement of a certain level in our knowledge of
how to pursue the activity) is the analysis of the activity, the definition of
the rules and principles which seem to inhere in it and in reflection upon
these rules and principles. But these rules and principles are mere abridgments
of the activity itself; they do not exist in advance of the activity, they cannot
properly be said to govern it and they cannot provide the impetus of the
activity. – Ibid.
(徐々に、そして様々な手段によって、我々は活動の追求法についての最初の知識を向上させ、拡張する。そのような手段(活動の追求法についての我々の知識がある一定の水準に到達するかどうかに明らかに左右されるため、下位の位置にあるけれども)には、活動の分析、活動に本来備わっていると思われる規則・原則の定義、そしてこれらの規則・原則に照らし合わせることなどがある。しかし、これらの規則・原則は、活動自体の単なる要約であり、活動に先立って存在せず、厳密には活動を支配しているとは言えず、活動の原動力も提供できない)
具体的活動がなければ、活動を分析することは出来ないし、活動の規則や原則を定義付けることも出来ないだろう。が、合理主義は、現実とは乖離(かいり)した頭の中の世界だけで、「正解」が設定される。
A complete mastery
of these principles may exist alongside a complete inability to pursue the
activity to which they refer. For the pursuit of the activity does not consist
in the application of these principles; and even if it did, the knowledge of
how to apply them (the knowledge actually involved in pursuing the activity) is
not given in a knowledge of them. – Ibid.
(これらの原則に完全に精通していても、その原則の対象となる活動をまったく遂行できない場合もある。というのは、活動を追求することとは、これらの原則を適用することではなく、そうであったとしても、その適用方法についての知識(活動の追求に実際関わる知識)は、これらの原則についての知識の中にはないからである)
抽象的世界における「正解」は、頭の中だけで煮詰められた「正解」であって、具体的世界には適応できない。不合理、不条理が渦巻く現実世界には歯が立たないのである。
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