オークショット「合理的行動」(9) <知的誠実さ>の意味の変更

これら(=活動に関する諸命題など)は教えることはできるが、教師から学びうる唯一の事柄ではない。経験を積んだ科学者ないし職人と一緒に仕事をすることは、そのルールを学びとるだけでなく、どのように彼が仕事に着手するかについての直々(じきじき)の知識(とりわけ、何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)を得る、1つの機会なのである。これが獲得されない間は、たいへん価値のある事柄でさえも学びとったことにはならない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 105

 詰まり、オークショット流に言えば、知識には「技術知」と「実践知」の2つあり、定式化可能な「技術知」だけを手に入れただけでは、本当の意味で知識を身に付けたことにはならないということである。

しかし、我々がこれ(=何時どのようにそのルールを適用するかについての知識)をルールそのものの学習と比較して重要でないと考えるとき、あるいはそれを本当の意味での教授ではない、つまり正式には知識ではないと拒否するときにのみ、ある活動を学習するということの性格が、活動それ自体はそれに関する別途に予め考えられた諸命題から生じうるのだという見解を支えているように思われる(同)

 <実践知>を拒否排除し、<技術知>を詰め込むことこそが合理的学習なのである。

精神的誠実さ、公平無私、そして偏見の不在が最高価値を有する知的徳目である、という称賛に値する確信があった。しかし、この確信は不幸にも奇妙な精神混乱に陥り、公平さは完全に自律的な精神――すなわち既得の性向を欠いている精神――にのみ可能であるという信念と結びついてしまった。(同、p. 106

 従来の公平の基準は、歴史の英知の中にあった。言い換えれば、自分を越えたところにあった。それが合理主義の波に押し流されしまい、自意識が肥大化する中で、自らが差配できるものへと相対的に矮小(わいしょう)化されてしまったのである。

知的誠実さを重んじると同時に、その知的誠実さを「正直」であろうと特別に決意した活動と同一視すること、そして知的誠実さを1つの既得の技能(これについてはそれぞれその適切な状況に応じた様々のイディオムがある)として認めることは、この不幸な「合理性」という理想への第一歩なのである。(同)

 予め特定された目的に向けて、予め決められたやり方で活動すること、それが知的に誠実であるという意味に、<知的誠実さ>の意味内容が変えられてしまったのである。

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