オークショット「合理的行動」(8) 合理的とは機械的

英語の rational は、例えば、Oxford Advanced Learners’ Dictionary によれば、

able to think clearly and make decisions based on reason rather than emotions

(感情よりもむしろ理性に基づいて明瞭に考え、決断することが出来る)

のように定義されている。一方、日本語の「合理的」とは「理に適っている」ということであるが、「理」は論理、道理、摂理といったものに細分化され、さらに摂理にも自然の摂理もあれば神の摂理もあるといった具合である。詰まり、「理に適っている」という意味の「合理的」という日本語の感覚で rational を見るのは誤解の元なのではないかということだ。

もし「合理性」が活動の望ましい特質を表すとしても、それは活動が始まる前にその活動について予(あらかじ)め別途に考えられた諸命題を持っているという特質ではあり得ない。また、このことは、他のどんな種類の命題にもあてはまるように、活動の目的ないし目標に関する諸命題にもあてはまる。ある活動の目的が予め明確に決定されていることを理由に、またそれが他のすべての目的を除いてその目的だけを達成することに関して、その活動を「合理的」だと呼ぶことは誤りである。なぜなら、実際のところ活動それ自体に先立って活動目的を決定する方法などないからである。仮にそうした方法があったとしても、活動の根源は依然としてその目的を追求する際にいかに行為すべきかを知っていることにあるのであって、単に追求されるべき目的をすでに定式化しているという事実にあるわけではない。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 104

 「合理的」などと飾らずに、むしろ「機械的」と言った方が分り易くはないか。言うまでもなく、機械は言われた通りに粛々(しゅくしゅく)と作業をこなす。予め決められた目的にむけて、決められた工程を進める。これを人間が行うとすれば、まさに「機械人間」である。

我々は、ある活動がその活動に関する諸命題を予め考えておくことから生じうると想定することは不自然である、ということに同意するかもしれない。しかし、ある活動を教えるためには、それに関する我々の知識を一組の諸命題――言語文法、研究規則、実験と検証の原則、手際の良さに関する規準――に移し替えることが必要であるということ、またある活動を学習するためには、このような諸命題から始めなければならないということを、我々は信じがちである。もちろん、この方法が教育上の価値を有することを否定するのは愚かなことであろう。しかし、これらのルールや、活動に関する諸命題などは、その活動に関して教師が持っている具体的な知識を要約したものである(それゆえ活動それ自体の後に形成される)というだけでなく、これらを学習することはある活動の教育の最も見栄えのしない部分でしかない、ということが認められねばならない。(同、p. 105

 学校教育の基本は、何か具体的な目標に向けて特殊な技術を伝達伝授するのではなく、社会人の誰もが共通して身に付けておくべき事柄の習得を目指すもののはずである。が、これは自由主義における教育であって、全体主義における教育は、誰もが予め決められた通りに考え、動くための、或る種「洗脳」のようなものではないかと思われるのである。

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