オークショット「合理的行動」(14)【最終】活動の整合性
It is commonly believed (as we have seen) that there is something pre-eminently 'rational' in conduct which springs (or appears to spring) from the independent premeditation of a purpose or a role of behaviour, and that it is 'rational' on account of the antecedent process of premeditation and on account of the success with which the purpose is achieved. And if we were to accept this view it would appear that moral conduct would be pre-eminently 'rational' when it was being treated for a diseased condition. -- Michael Oakeshott, Rational conduct: NINE
(行動の目的や役割を独立に前もって熟考することから生まれる(あるいは生まれるように見える)行動には、極めて「合理的」なものがあり、予謀の先行過程のゆえに、そして目的が達成される成功のゆえに「合理的」であると(これまで見てきたように)一般に信じられている。そしてもし、この考え方を受け入れるなら、道徳的な行為は、病状の治療を受けているとき、極めて「合理的」であるかのように見えるだろう)
「合理的」(rational)というよりも「合理主義的」(rationalistic)と言った方が分り易いのではないだろうか。合理主義者の言う「合理的」とは、理に適(かな)うという意味というよりも、合理主義の考え方に沿ったという意味のように思われるからである。
But even this is
rather more than may properly be concluded; the most that may, in fact, be
claimed is that conduct is specially 'rational' when it is being cured of a
disease and when the success of the treatment depends upon the illusion that
the curative property of the substance injected derives from its being
uncontaminated with the character of the diseased moral tradition -- an
illusion similar to that of the man who thinks he has found a new and
independent way of living when he is really only spending his inherited
capital. Of course, reflection upon the principles and ends in conduct may
serve other than remedial purposes; it has a pedagogic and perhaps even a
prophylactic use: the important point, however, is that it is never more than a
device. – Ibid.
(しかし、これさえも、適切に結論づけられるというより、むしろ実際主張されることは、病気を治療していて、治療の成功が、注入された物質の治癒力が、病的な道徳的伝統の特徴に汚染されていないことによるという幻想次第であるとき、行為は特に「合理的」だというのが精々である。これは、本当は相続した資本を使っているだけなのに、新しい独立した生活方法を見つけたと思う人と同じ幻想である)
衝動的な行動、「自然に起こる爆発」、慣習やルールに従った活動、そして長い反省過程の後になされる行動は、同様に「合理的」であるかもしれない。しかし、これらの特徴があったり、あるいはこれらないしそれと同様の特徴がなかったりするがゆえに、それが「合理的」だったり「不合理的」だったりするわけではない。「合理性」とは、共感の流れの中で1つの位置を維持しうる行為ならどんな行動にでも我々が与える証明書、つまり活動の整合性のことである。
それは生活様式を構成する。この整合性は、「理性」と呼ばれる能力ないし「共感」と呼ばれる能力の作用のことではない。それは別々に注ぎ込まれた道徳観念からも、道具としての意識からも生じない。実際のところ、調和を享有する諸要素やそれを求める諸要素から絶縁された、外的な調和力などまったく存在しないのである。調和を確立し不調和を見つけるのは、具体的な精神、つまり調和を求める活動からすべてが構成され、達成されたすべての調和レベルにあまねく関係づけられた精神なのである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 125-126)
<活動の整合性>は、頭の中で抽象的に図るものではなく、具体的活動の中で、修正調整を繰り返し、活動の調和を求める精神によって図られるものなのである。【了】
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