オークショット「合理的行動」(6)頭の中で作り上げた空想

人間行為についての誤った理論であり誤った記述であるがゆえに、その理論に適する明確で偽りのない行為事例を示すことができない…実際に不可能なのである。人々はこのようには行為しない。なぜなら、そうすることができないからである。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 101)

 理論通りに合理的に行動することなど不可能だということである。

確かに、この理論を考えた者たちは、自分たちが可能な行為形態を記述しているのだと思っていた。そして、それを「合理的」だと称して、彼らはそれを望ましいものとして推奨したのである。しかし彼らは勘違いしていたのである。また、疑いなく、この理論が通用する場合にはいつでも、行為はその理論が示唆するパターンと合致する傾向があるだろう。しかし、それはうまく行かないであろう。誤った理論が実際に孕(はら)んでいる危険は、その理論のために人々が望ましくない仕方で行為するようになるということではなく、それによって活動が誤れる方向へと惑わされ攪乱(かくらん)されるということである。(同、pp. 101-102)

 人間は機械ではない。脳内を初期化して合理的理論だけで埋め尽くすなどということなど出来るわけがない。また、予(あらかじ)め決められた目的に向けて、決められた道筋を、何の選択の余地もなくただ進むなどということは「人間」である限り出来やしないのである。

その理論の正確な性格が看取されるとき、その理論は自らの不完全さのゆえに崩壊することが理解されるであろう…この理論はどんな種類の行動についても満足のいく説明を与えないがゆえに、合理的な行動についての満足のいく考えではない(同、p. 102

 合理的理論とはどのようなものなのか。

まず何か「精神」と呼ばれるものがあるということ、この精神は信念・知識・偏見――要するに内実――を獲得するが、それにもかかわらず、それらは精神の単なる付加物にすぎないということ、精神は身体的な諸活動を引き起こすということ、そして獲得されたいかなる種類の性向によっても阻害されないとき精神は最もよく働く(同)

 <精神>は独立した存在であるということ、先ずこれが「空想」である。

この精神はフィクションであって、実体視された活動以上の何物でもない。我々の知っている精神は知識や活動の所産であり、もっぱら思考から成り立っている。思念という内実を獲得した後で、真と偽、正と邪、理性的と非理性的とを区別し、それから第3段階として活動を引き起こすというような精神を、人は最初から持っているわけではない。正確に言えば、精神はあれこれの特質から離れて、あるいはそれらに先立ってはいかなる実体をも有していないのである。(同、pp. 102-103

 そもそも<人間精神>は生得的なものではないし、渾然(こんぜん)一体のものなのであって、合理的理論に合わない不純物を取り除いて<精神>だけを取り出すことなど不可能である。合理主義理論は、現実には出来ないことを、頭の中で作り上げた「空想」である。

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