オークショット「合理的行動」(5)合理主義は「砂上の楼閣」

人間の精神にはその構造上、「理性」という生まれつきの能力、その輝きが教育によってのみ曇らされるところの光、1個の誤謬(ごびゅう)防止装置、その呪文が真であるところの神託が含まれていると想定されてきた。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 98)

 <理性><光><誤謬防止装置><神託>が人間精神に備わっているなどというのは、まったく非合理な前提である。が、この非合理な前提がなければ合理主義は成立しない。だとすれば、合理主義は、どれほど偉そうなことを言っても、「砂上の楼閣」と言うしかないではないか。

しかし、この想定が賢明さを失い必要を越えてさらに押し進められるならば、人間の精神はその内容とその活動から分離されうるという想定が(この能力があるとすれば)不可避であるように思われる。精神を中立な道具として、また1個の装置として想定する必要がある。この1台の機械を最もうまく使いこなすために長く激しい訓練が必要であるかもしれない。大事に整備されなければならないのはエンジンである。にもかかわらず、精神は独立した道具であり、それを用いることから「合理的」な行動が生じるのである。(同、p. 98

 <理性>は決して生得的なものではなく、経験を積むことで研ぎ澄まされていくものではないのだろうか。が、<理性>が経験差によってばらばらとなるようでは合理主義は成り立たない。だから<理性>は生まれながらにして誰もが平等に有しているものと前提しなければならないのである。

 この仮説によれば、精神は経験を処理することのできる独立した道具である。信念、観念、知識、精神内容、とりわけ世界中の人間の活動のすべてがそれ自体精神として、あるいは精神を構成するものの一部として捉えられるのではなく、精神の外来的・後天的獲得物として、つまり精神が所有したり企てたりしたかもしれない、あるいはそうしなかったかもしれない精神活動の結果として捉えられる。

精神は知識を獲得したり身体活動を引き起こしたりするかもしれない。しかし、精神はあらゆる知識を欠きいかなる活動も起こさないとしても存在しうる何かである。たとえそれが知識を獲得したり活動を引き起こしたりしたとしても.それはその獲得物ないしその活動表現とは無関係のままである。精神は不変で、永久的であるが、その知識の内容は変動的でしばしば偶然的である。

さらに、この永久的な精神的道具は出生のときから存在しているのだが、修練が可能であると想定されている。しかし、いわゆる「修練された精神」は、ユークリッドの定理に泣かされた生徒の涙のように、学習と活動の結果であって、それから引き出される帰結ではない。したがって、精神の修練は、(体操のように)純粋に機能的な訓練か、あるいはバスに間に合うために走るような、我々が偶然にもうまくやれるための訓練の、どちらかの形をとるかもしれない。(同、pp. 98-99

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