オークショット「合理的行動」(2)合理的活動は目的志向的
なぜブルーマーは自転車に乗る少女たちにとって「合理的」な衣服様式であると考えられたのか。また、なぜこのようなやり方が優れて「合理的」だと考えられたのか。概して、このような問いに対する回答は次のようなものである。第1に、これらの回答は状況に応じて採用されたものである――つまりブルーマーはその設定された特殊問題の正解だったのである。もし自転車が別の設計からなっていた(たとえば脚ではなく腕が推進機関であった)とすれば、「合理的」だと考えられる衣服は異なったデザインになっていたことであろう。
第2に、その回答はその設定された問題の反省的な熟考からのみ生じた(あるいは生じると思われた)ものである。すなわち、ブルーマーをデザインするという行為(あるいはそれを着用するという行為)は、「不適切」な考慮によって撹乱されない独自の反省的努力という先行行為から生じたがゆえに、ブルーマーは「合理的」な衣服様式だった(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 94)
空っぽの頭に合理的なものを詰め込めば、あらゆるものが合理的に見えるのは当然である。合理的に見えないとすれば、最初の段階で頭が空っぽになっていなかったという初期設定の失敗である。
「合理的」な活動とは、予め別途に考えられた目的を追求し、かつその目的だけに規定される行為のことである…「合理的」な行動は、定式化された目的を達成するために意図的に志向された行為のことであり、その目的だけに支配される。(同、p. 95)
最初に「ある目的」という小さな世界が設定され、この目的を達成することだけにおいて<合理>が追及される。当然、目的外のことは端(はな)から眼中にはないということである。
ブルーマーは、ヴィクトリア朝の感性に衝撃を与えたり楽しませたり困惑させたりするためにではなく、まさにサイクリングに適する衣服様式を提供するためにデザインされたものである。デザイナーたちは、「何か娯楽に供するものを作ろう」と心の中で考えていたわけではなかったし、またその創作物の「ばからしさ」が多少なりともその「合理性」に適った特性であるなどと思っていたわけでもなかった。(同)
創作物が馬鹿らしいものかどうかなど<目的>とは無関係なのであるから、合理主義者にとって、そんなことを気にすること自体が「馬鹿げたこと」なのである。
確かに「ばからしさ」は、この「合理性」という観念によって鼓舞されたデザイナーたちの作品すべてに共通した特徴であるので、普通それは成功の徴(しるし)だと考えられうるであろう。(同)
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