オークショット「合理的行動」(10) 合理性の魅力

確実性――信念と行動の諸問題に関しての――への激しい欲求があった。それは次のような確信と結びついてしまった。すなわち、確実性はただ我々に「与え」られた何かに関してのみ可能となるのであって、我々が確かめた何かに関してではない、つまり確実性は恩寵(おんちょう)という贈物であって、労働の報酬ではない、という確信である。確実性は、おそらく我々が出発点としなければならないものであるに違いない。活動とは無関係の命題的知識だけがそれを提供するように思われる。この種の誤謬(ごびゅう)なき確実性への切望は、思うに、知的誠実さへの欲求ほど信用のおけるものではない。確かに、道具としての精神はいくつかの点で魔術信仰の遺物だとみなされてもよいと、私は思う。(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、p. 106)

 不確実なものを削ぎ落し排除したものが合理的なものとなるのだから、合理的なものは確実なものとなる。この絡繰(からく)りによる<確実性>が<合理性>の魅力なのである。

多くの生活領域、特に政治においては、物事への取り組み方がますます分からなくなっており、「新しい」と思われるがゆえに素早い処理手段が我々に準備できていない状況がよく生じるようになった。政治の場においていかに行為すべきかを知らないとき、人はこの種の知識の価値と必要性をけなし、活動に先立って知る能力を賦与されていると想定されている、自由で開放的な精神の価値と必要性を誉める傾向があるだろう。(同)

 生活そして社会が複雑になるにつれて、政治課題も複雑化する。従来の手法では問題を解決することが出来ず、解決に要する時間も長くなりがちある。これに対し、<合理主義>は物事を単純明快に処理していくわけであるから人々の目には魅力的に映るわけである。

 が、不合理なものを削ぎ落し、単純化するからこそ問題を<合理的>に処理することが出来るのであって、削ぎ落された問題は山となり放置されるだけである。が、単純化し<合理的>に処理しようとしたことが必ずしもちゃんと処理できる保証はない。不合理なものをすべて削ぎ落せば、人間的なものは残らないからである。

彼が「合理的」な行動だとするものが実際に不可能なのは、それが「異常で不合理な、大部分の人の内部にある邪悪さの根源」によって圧倒されやすいからではなく、人間行動の性質に関する不実表示を含むからである、という考えである。彼は自分が幻想の犠牲者であったことを容易に認めるであろう。しかし、彼にはその幻想の正確な性質が分からないであろう。(同、p. 108

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