オークショット「合理的行動」(4) 人間機械論

「合理的」な行動のさらなる決定要素は、それが除去ないし反対する種類の行為の中に見出されうる。第1に、単に気まぐれなだけの行動、すなわち予(あらかじ)め設定された目的を持たない行動が除去されるだろう。第2に、それは単に衝動的なだけの行動、すなわち欲求された目的の達成手段を反省的に選択するための必須の要素を欠く行動に反対するであろう。第3に、この「合理的」な行動は、次のような行動、すなわち意図的に受容された何らかのルール・原理・規範によって規制されず、かつある定式化された原理を素直に遵守(じゅんしゅ)することからは生じないような行動に永久的に反対する。さらに、それは伝統・慣習・行為習慣という吟味されていない権威から生じる行動を除去する…最後に、その達成に必要な手段のないことが知られている目的を追求する活動は除去される(オークショット「合理的行動」(勁草書房)、pp. 96-97)

 <合理的行動>には、こういった様々な制約が存在するのである。

我々が吟味している見解は、これが1つの可能な行動様式であること、具体的な活動はこの仕方で起こりうること、そしてそれがこのような仕方で起こるがゆえに「合理的」だと呼ばれうることを主張する。(同、p. 97

 多様な手法の中から絞り込まれた唯一の行動様式が<合理的>と呼ばれるに相応しいわけである。

この見解は何を前提しているのか。またこの諸前提を妥当なものにするのは何か。

 第1の前提は、人々が物事を推論し諸活動についての諸命題を熟考しこれらの命題を整序づけて整合的なものにする能力を持つということであるように思われる。また、これは人間が持ちうる他のどんな能力からも独立した能力であり、人間の活動がそこから始まりうるところの何かである、ということがさらに前提されている。活動が「合理的」(あるいは「知的」)だと言われるのは、それがこの能力を行使することによって進められるからである。つまり、人間が行為する前に一定の仕方で「考えた」がゆえにそうなのである。「合理的」な行動とは、先行する「推論」過程から生じる行動のことなのである。ある人の行動が完全に「合理的」であるためには、彼が次のような能力を持っていることが想定されなければならない。すなわち、まずイメージしそれから追求すべき目的を選択する能力、その目的を明確に限定する能力、目的を達成するためにふさわしい手段を選別する能力である。この能力は、伝統とか人間の偶然的な世界経験という統御されない遺物だけでなく、この能力がそれに対して予備的であるような活動そのものからも完全に独立していなければならない。大多数の人々が共に「合理的」な行動を完全に享有するためには、彼らがこの種の能力を共通に持っているということ、そして彼らは皆それを行使することによって同じ結論へと至り同型の活動をすることになるということ、このことが想定されなければならない。(同、pp. 97-98

 自由主義的個人主義の立場に立てば、このように考えざるを得ない。が、合理主義は、個人の自由な選択を許さない。計画立てられた目的に向けて、決められたやり方で成果を出すことが求められる合理主義とは、謂わば「人間機械論」的発想が根底にあると考えざるを得ないのである。

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