ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(5)名著名訳

 こうして、遊戯は簡単に真にも善にも関連させることができないとすれば、それはあるいは、美の分野にでも包含されることになるのだろうか。ここで、われわれの判断は動揺する。確かに、美しいという属性が、遊戯そのものに具わっているわけではないが、遊戯には、とかく美のあらゆる種類の要素と結合しようとする傾きはある。例えば、比較的素朴な形式の遊戯には、初めから歓楽の気分と快適さが結びついている。運動する人体の美は、遊戯の中にその最高の表現を見いだしている。

一方、比較的複雑な形式の遊戯には、およそ人間に与えられた美的認識能力のうち、最も高貴な天性であるリズムとハーモニーが織りこまれている。このように、遊戯は幾本もの堅いきずなによって美と結ばれているのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 21

 私の読書法は、多くが「批判的読み」(critical reading)に当たる。したがって、常に引っ掛かるところがないかを気にしながら本を読む癖が付いてしまっているのであるが、本書は論旨明快であり、立ち止まるべきところが殆どといって無い。よって、ただ気になるところを引用するだけになってしまっている。これには、訳文の明晰さも一役買っている。著者に匹敵するくらい内容に精通していなければこのような名訳は生まれない。その意味で、まさに「名著」に相応しい一冊なのではないかと思う次第である。

遊戯という概念は、不思議なことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、常に隔たっている。われわれは、幾つかの思考形式によって、精神生活や社会生活の構造を表現することができるが、遊戯はそれらすべてとも別のものである。(同、p. 22

すべての遊戯はまず第1に、また何にもまして、1つの自由な行動である。命令されてする遊戯、そんなものはもう遊戯ではない。せいぜい、押しつけられた遊戯のまねごと、写しでしかあり得ない。早くも、この自由の性格によって、遊戯は自然の過程がたどる筋道から区別される。遊戯は自然の過程に付け加えられるもの、美しい衣裳のようにその上に着せられるものなのだ。(同)

 「自由」があるから遊べるのだ。詰まり、「自由」は「遊び」にとって必要不可欠な要素であると言える。「遊び」には「自由」が無ければならない。型に嵌(はま)った、雁字搦(がんじがら)めの遊びなど矛盾でしかない。

もちろん、ここでいう自由とは、決定論の問題には手を触れずにおいた、より広い意味で理解されなければならない。だが、こう言うこともできるという人があるかもしれない。この自由は動物の仔や幼い子供については成り立たない。彼らはその本能が命ずるからこそ、また遊戯が彼らの肉体的能力と選択能力を発達させるのに役立つからこそ、遊ばずにはいられないのだ、と。

しかし、本能という概念を導入することは、1つの未知のⅩを持ちこんでその蔭に隠れることだし、また最初から遊戯の有用性ということを前提におくのは、論理学でいう(不当前提)petitio principii を犯すことになりそうだ。子供や動物が遊ぶのは、そこに楽しさがあるからであり、そしてまさにその点にこそ、彼らの自由があるのだ。(同、pp. 22f

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