【新連載】ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(1)「ホモ」はラテン語で「人間」のこと
今回は、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読んでいく。
われわれ人間は、結局のところ、18世紀がその素朴な楽天観の中で、とかくそう思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えない。そこで〈ホモ・サピエンス〉という名称が、われわれを指していうにしては、当時信じられていたほど適切なものではないことが明らかになってくると、この名称のほかに、人類を示すため〈ホモ・ファベル〉、作る人という呼び名が持ち出された。しかしこれは、前者よりさらに不適切なものである。ものを作る動物も少なくないからである。
作るということを言ったが、これはまた遊戯することについても同じであって、実に多くの遊ぶ動物がいる。それにもかかわらず、私は〈ホモ・ルーデンス〉、遊戯人という言葉も、ものを作る機能と全く同じような、ある本質的機能を示した言葉であり、〈ホモ・ファベル〉と並んで1つの位置を占めるに値するものである、と考える。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス
人類文化と遊戯』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 1)
ラテン語Homo
Ludensを「遊び人」と訳してしまっては「(遠山の)金さん」のようになってしまって、話があらぬ方向に向かってしまいかねないので、カタカナ書きで「ホモ・ルーデンス」と表記されていることを先ず確認しておこう。
では、ホイジンガの考える「遊び」とは何か。訳者高橋氏は、「遊び」と言うと「仕事」の対義語と受け取られかねないのを危惧してのことであろう、「遊戯」という言葉を使われている。
遊戯というものが、純生物学的な行動の、というか、あるいは純粋に肉体的な活動とでもいうものの限界を超えているのである。すなわち、遊戯はなんらかの意味を持った1つの機能なのである。(同、p. 12)
遊戯は1つの意味を持っているということからすれば、遊戯そのものの本質の中に、1つの非物質的な要素があることは明らかである。(同)
遊戯の起源、基礎は、あり余る豊かな生命力を放出することであると定義できる、と考えた人たちもいる。また他の人々によると、人間が遊戯をするというのは、先天的な模倣本能に従っているということなのだ、という。遊戯によって、緊張から解きほぐされたいと願う欲求を満足させたり、実生活がやがて要求してくる真剣な仕事のための練習をしたりしているのだとか、遊戯を克己(こっき)、自制の訓練として役立てているのだ、という人々もいる。
さらに他の人々は、ある事を仕出かしてみたい、何か事を起こしてみたいという先天的な欲望の中に遊戯の原理を求めたり、他人の上に立って支配してみたい、人と競争してみたいという欲望の中に探ったりしている。まだ他にもある。ある一派は、遊戯のことを、人間に有害な衝動を無害化する鎮静作用であるとか、人間の行動があまり一方的に偏った時におこる止むをえない補償であるとか、現実の中では満たされなかったさまざまの願望を虚構によって満足させることである、と考えている。つまりこの考えは、遊戯を、人格という感情を確保し、維持する行為としてとらえていることになる。」(同、pp. 12f)
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