ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(4)遊びの自立性

アリストテレースのいう〈笑う動物〉animal ridens は〈理性人〉という言葉よりも、いっそう純粋に人間を動物と対立させて示した言葉といえる。いま、笑いについて言ったのと同じことは、滑稽(こっけい)なものについても言うことができる。滑稽とは〈真面目ではないもの〉という概念に属していて、ある点では笑いとも結びつく。つまり、笑いを喚起するのが滑稽なのだ。しかし、その遊戯に対する関係は従属的な性質のものである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 20)

それ自体として見れば、遊戯は滑稽ではない。遊んでいる当人にとってもそうである。観衆にとってもそうだ。動物の仔(こ)や幼児が遊んでいるさまは、時に滑稽なこともないではない。だが、成長した犬が追いかけ合っている眺めとなれば、そういうところは殆んどか、あるいは全く見られないのである。また、われわれがファルスや喜劇を滑稽だと思うのも、そこで演じられている行為そのもののせいではない。そこに盛られた思想内容のせいである。笑いをよぶ道化師の滑稽な身振りは、ただ意味を広くとった時にだけ遊戯と呼ぶことができるにすぎない。

※ファルス:フランス中世後期に栄えた民衆演劇の形式の一。当時の庶民生活を題材とした単純素朴な喜劇。一般には、こっけいさをねらった喜劇。笑劇。ファース。【デジタル大辞泉】

 滑稽なものは、痴愚と密接な繋がりがある。しかし、遊戯は愚かしくはない。それは賢愚という対照の外にある。この痴愚という概念もまた、さまざまの生活気分の大きな区分を表現するのに利用されずにはいなかったものである。(同)

 遊戯、笑い、戯れ、諧謔(かいぎゃく)、滑稽、痴愚などの言葉の属している、これらただ漠然とした関連で繋がる一群の観念の表現は、われわれが遊戯に対して認めざるを得なかった特質、つまり、より根源的な概念に還元することの不可能というものを、どれもみな共通して持っている。それらのものの根本原理は、われわれの心の本質の中でも、特に奥深い層におかれているのである。

 とにかく、われわれが遊戯という形式を、外見上それによく似ている他のさまざまの生の形式から、はっきりと区画しようと努めれば努めるほど、遊戯というものの絶対的な自立性がいよいよ明らかになってくる。しかもその上、こうして遊戯というものを大きな範疇的対立の領域から切り離してしまうことにより、われわれは考えをまた前へ進めることができる。遊戯は賢愚という対立の外にあるものだが、同様に真偽、善悪の対立からみても、その外にあるものと考えられるのである。遊戯することは確かに精神的活動の1つではあるが、それ自体の中にはまだ道徳的機能はなく、美徳とか罪悪とかの評価は含まれていないのである。(同、pp. 20f

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